下水道と、無くならないもの

下水道と、無くならないもの

下水道交換日記埋め立て地残滓

「これ、二人で書いていたノートです」 窓口にそう言って置かれたのは、青い表紙のノートだった。角が一つだけ丸くすり切れている。わたしは受理の手続きを始めた。一度目に日付を書き、二度目に灯番号を書き、三度目に預かった品の名を書く。三つの欄はいつも同じ順で埋める。順を変えると、あとで読む人が混乱するからだ。

持ってきたのは深津亜子という中学生だった。相手は小坂澪という同級生だという。ページは交互に埋まっていた。丸い字と、細い字。丸いほうが亜子で、細いほうが澪だ。日付は毎日きちんと入っている。返事が二日遅れた日には「おそくなってごめん」と書き足しがある。線を引いて消した跡もあちこちに残っていた。消し跡は残したままにする決まりだったらしい。

「先月から、下水道の話ばかりになったんです」 亜子はそう言って、途中のページを開いた。学校の裏で工事が始まったのだという。それから二人は、流したものの行き先について書き合うようになった。

その書き方が、わたしには引っかかった。二人とも「流したら無くなる」と書いていたのだ。無くなる。消える。どこにも無い。同じ意味の言葉が、三つの言い方で何度も出てくる。悪口を書いた紙を破いて流した、と細い字にある。もう無いから平気だ、と丸い字が返している。

鴇江市の地形を知っている人なら、これがおかしいと分かる。この街はもともと入り江だった土地を埋めて作られている。海に向かって細長く伸びた砂嘴の形が、そのまま今の町の輪郭になった。埋め立て地なので、地面の高さは海面よりわずかに低い。だから水は自然には出ていかない。ポンプで押し上げて、はじめて外へ出る。押し上げるまでは、全部そこに溜まっている。

二人の共有した誤解は、これだった。流したものは無くなる。実際には、無くならない。低いところに集まって、待っている。

三日後、細い字の分量が減り始めた。一度目は三行。二度目は一行。三度目は日付だけ。返事の欄が白いまま次のページに移っている。丸い字はそれでも書き続けていた。「返事おそくてもいいよ」と、同じ言葉が三回書いてある。

わたしはポンプ室の見学記録を取り寄せた。工事の日、地下の沈砂池で職員が異物を回収している。破いた紙、消しゴムのかす、名札。流されたはずのものが、そこに全部あった。回収した職員は市の技師だった。管の勾配も、水の行き先も、この人はすべて正確に知っている。だから最初にその池を見に行った。だから最初に見つけた。そして、だから、何もできなかった。

技師の書いた報告にはこうあった。回収物のうち一点だけ、写真に写らない。目には見える。手には触れる。名札だ。細い字で名前が書いてある。写真だけが、そこを白いまま残す。正しい管の図面を持っている人には、白い場所を探す手がかりが無い。図面に載っているのは、水が通る道だけだからだ。

わたしはその晩、沈砂池の縁に立った。水面のすぐ上に、うすい人の形があった。制服の肩の高さだけがはっきりしている。ほかは輪郭がぼやけていた。それは池の底のものを一つずつ持ち上げては、また落としていた。持ち上げる。落とす。持ち上げる。無くならないことを確かめているように見えた。

「何と呼ばれたいですか」 わたしはいつもの問いをした。形は答えなかった。代わりに、水の中から名札をもう一度持ち上げた。細い字が濡れて、少しにじんでいた。

わたしは退ける方法を持っていない。持っていたとしても使わない。できるのは、そばにいて、聞いて、書き留めることだけだ。わたしはノートを開いて、丸い字の続きを読み上げた。おそくてもいいよ。おそくてもいいよ。おそくてもいいよ。三回読んだところで、水面の形がわずかに濃くなった。濃くなっただけで、それ以上は何も起きなかった。

次の週から、細い字は完全に止まった。ページには日付だけが並んでいる。丸い字は毎日書き続けた。返事の来ない欄に、亜子は自分の一日を書いた。給食の献立、当番の順番、雨が降ったこと。書く量は日ごとに増えていった。

沈砂池の形は少しずつ薄くなった。持ち上げる回数が減り、やがて手の輪郭だけになった。それでも完全には消えない。ポンプが動くたび、水がわずかに濁る。濁りは毎回同じ場所に出る。低いところに残ったものは、押し上げられないかぎり、そこにある。わたしはそれを残滓として記録した。数えようとして、数え切れなかった。一度目は七つ、二度目は九つ、三度目でまた七つに戻った。

ノートは返した。最後のページには余りがあった。亜子は「まだ書ける」と言った。わたしは受理の記録に、いつもどおり同じ長さの空行を一行入れた。

帰り道、閉じたままの店の二階に灯りがついていた。昨日までは一つだったはずが、今日は二つある。数え間違いかもしれない。あの色にはまだ名前がない。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。

題材の着想: ウィキペディアの記事「スパイケニッセ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

コメント

投稿は公開されます。個人情報や誹謗中傷は書かないでください。作品はフィクションです。