ちょうどの分だけ好きな街

ちょうどの分だけ好きな街

計量誇張

「この子は、まあ、かわいいですよ」。蕎麦屋の隅で、その父親がそう言った。膝には小さな娘がいた。半年前、同じ席で、同じ人が違うことを言っていた。「この子のためなら、死ねる」。今日は、その言い方が、口から出てこなかった。出てこないことに、父親は気づいていない。娘だけが、父の顔をじっと見ていた。知らない人を見る目だった。

落ちたのは、意味ではない。程度だ。好きの大きさを、実際より大きく言う。その働きをする語だけが、人の口から抜けていく。感情は残る。父はいまも、娘のためなら死ねる。ただ、そう言う手立てだけが、無くなった。だから娘は、これから一生、「まあ、かわいい」しか聞けない。父はそれを、直せない。抜けたことを、知らないからだ。

届出は課長の桐生から回ってきた。市内の若い人たちが、強い好意を新しい言い方で表していた。「好きすぎて滅」。語の最後に、一字を足す。もちろん、本気で滅びるとは、誰も思っていない。でも、そこがいちばん肝心だった。彼らが揃って思い描いたのは、終わりではない。「多すぎた分が、すっと引く」。掃除に似た絵だ。その同じ絵を、大勢が、同じ形で持っていた。わたしはこの件を、灯番号 T-20260719-02 で受けた。

語現体は、末広町の坂にいた。下ってくる前に、空気がすっと冷える。鉄の、錆びた匂いがする。それから、かちゃ、と鎖が鳴る。片方の皿だけが揺れる音だ。背の高い、痩せた形だった。顔のあるべき場所に、棹秤の皿が一枚、下がっている。目は無い。何にも触れない。誰の名も、呼ばない。ただ坂を下り、通ったあとの言葉から、程度の語だけを持っていく。

その坂の途中で、若い女がひとり、電話をしていた。相手に、好きだと伝えている最中だった。「あなたのことが、」。そこで、声が平らになった。「……好きです」。続くはずの言葉が、消えていた。女は、言い直そうとした。同じ平らな声しか、出てこなかった。女は不思議そうに首をかしげ、そのまま電話を切った。減ったことに、気づいていない。減ったものは、もう戻らない。

坂の下では、母親が、子どもを叱っていた。「もう二度と、口をきかない」。そう言ったつもりだった。でも、口から出たのは、「ちょっと怒ってる」だけだった。母親は、言い足りない顔で、二度、三度と、言い直した。そのたびに、言葉は平らになっていった。子どもは、母親がもう本気で怒れないことを、先に知ってしまった。子どもの顔から、こわがる色が、すっと引いた。

街の広報を長く書いてきた、老いた編集者がいた。彼は、その一字がただの誇張だと、誰よりも正確に知っていた。だから坂の上で用例を並べ、これは終わりの語ではない、と説明した。でも、正確に説明するほど、彼自身の文章からも、程度が抜けた。最後に彼が書いた記事は、事実だけでできていた。正しくて、短くて、誰の記憶にも残らなかった。正しさは、この街では、その程度の力しか持たない。

統計官の早瀬は、これを数字にした。彼の予測線には、前から小さな揺れが乗っている。理由は、誰にも説明できない。でも今回は、その揺れの向きが揃った、と早瀬は言った。「減っているのは、語彙ではありません。語彙の余りです」。彼は何度も、そう繰り返した。数字にすれば怖くない。そう信じて、彼は立っている。

厄介なのは、誰も困らないことだ。坂の上の菓子屋は喜んでいた。客の言葉が短くなって、計算が合う、と言う。学校の教師も言った。生徒の作文が、正確になった、と。過剰を削られた人は、それを損だと思わない。損だと思わないものを、人は届け出ない。届け出のない欠落は、局の数字に、一度も乗らない。

わたしは三晩、坂を歩いた。棹秤の形は、一定の速さで下ってくる。追い越せない。追いつかれもしない。距離が変わらないのは、こちらが合わせているからだ。三晩目、形が、ふいに止まった。皿が、ゆっくりとこちらへ傾いた。量られている、とわかった。手元の帳面で、いま書いたばかりの一語が、すっと薄くなった。皿は、そこで止まった。わたしからは、持っていくものが、無かったらしい。理由の欄は、空けたままにした。

説明がつかないのは、削られた分の行方だ。坂の下に、空き店舗がある。その床が、七月の夜のあいだだけ、人の体温ほど温かい。誰の余りが、そこへ置かれたのか。たぶん、分からない。わたしは床に手を当て、温度だけを記した。理由の欄は、また空けた。空けた欄は上へ回され、そのまま返ってこなかった。

語は三日で使われなくなった。若い人が、次の言い方を見つけただけだ。棹秤の形は薄くなり、坂に沈んだ。沈んだものは、消えない。でも、それを確かめる手立てを、局は持たない。局が持っているのは、隠す技術だけだ。あの父親は、いまも娘を見ている。口では、まあ、かわいい、としか言えないまま。

記録の末尾に、わたしはいつも通り、一行だけ空けた。その一行が、今日はやけに長く見えた。

局の裏の非常階段で、電球が先月より一つ多く点いている。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。

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