良かったことにされた一区画

良かったことにされた一区画

語現体末広商店街記念日看取り

アーケードの継ぎ目から落ちてくる光が、七月十三日の午後は、いつもより白かった。末広商店街の入口に、貼り紙が一枚あった。画用紙を切っただけの紙で、風を受けて鳴っている。手書きで、本日ナイスの日、とだけ書いてあった。誰が貼ったのかは、書かれていない。その下を、買い物客が三十人ほど通り過ぎた。誰も、一度も見上げなかった。

七月十三日という日付には、もともと何の意味もない。七と一と三の並びに、あとから意味が貼りつけられた。そして、貼りつけられた側の意味だけが、先に広まった。中身のない器は、誤解をよく溜める。わたしはアーケードの下で二時間、その語が聞こえた回数を数えた。全部で三十四回。褒める意味で使われたのは、たった四回だった。残りはすべて、同じ像を伴っていた。もう見なくていい、という合図だ。八百屋の主人は、そう言ってから商品を見ない。客も、そう言ってから値札を見ない。

その像の通りのものが、区画の内側に立った。輪郭がある、とは書きにくい。距離を変えて三度測ったが、幅は毎回ちがう値になった。平均を取っても意味のない相手だ。その近くを歩くと、まわりのものから細かい部分が減っていく。錆の粒がならされる。看板の文字数が減る。シャッターの傷が浅くなる。減った先にあるのは、無ではない。良かったもの、という平たい形だ。近づくと、空気がぬるい。体温より、ほんの少しだけ高い。人の肌に近い温度だ。音はしない。匂いもしない。ただ、そばに立つと、自分の輪郭までぼやけていく気がする。

三日目、八百屋の主人の顔から、細かいところが減っていた。目尻のしわ。左の眉の切れ目。笑うと寄る、鼻の脇の癖。ぜんぶ、ならされていた。声も平らになった。「いらっしゃい」の高さが、隣の乾物屋の主人の「いらっしゃい」と、同じところに寄っている。四日目には、二人の見分けがつかなくなった。奥さんが店に来て、どちらが夫か、少し迷った。迷ったことに気づいて、その人は口をおさえた。主人は、迷われたことを、良かったね、とだけ言った。もう、それしか言わなかった。次の日、主人は自分の名札を、裏返しにつけていた。名前を見られると、良かったことにならない。そう思っているようだった。その顔には、もう、笑い方が一つしか残っていなかった。

区画の内側で、音の高さもそろいはじめた。シャッターの下りる音。自転車のベル。店先の呼び込み。もとは別々の高さが、耳で聞くかぎり、同じあたりに寄っていた。録音して波形を見ると、寄っているのではない。端が削られている。良い音とされる幅だけが残って、その外側が無い。削られているのは、物ではなかった。その物が持っていた、例外の部分だ。例外を失ったものは、互いに区別がつかなくなる。

隣の教室で英語を教えている男が、一人だけ均されなかった。ナイスという語は、もともと「よく知らない」という意味から転がってきた。彼はそれを正しく知っている。知っているから、口に出せない。口に出さない者には、合図が届かない。合図が届かない者は、良かったことにされない。区画のなかで、彼の袖口のほつれだけが、最後まで細かいままだった。彼はそれを見せながら、自分だけ取り残されている、と言った。取り残されたのではない。あなただけが、まだ終わっていないのだ。そうは、言わなかった。彼は正しく知っていた。そのせいで、目の前で均されていく人を、一人も引き止められなかった。

何と呼ばれたいのか、と一度だけ尋ねた。返ってきたのは、音ではない。こちらの問いの、細部が減っていく感触だった。二度目に尋ねたときには、わたしは自分が何を尋ねたのかを、短く言い直していた。三度目は、言い直す必要すらなかった。問いのほうが、先に平らになっていたからだ。灯番号 T-20260720-01。看取るというのは、こういうとき、何もしないでそばにいることだ。わたしは、何もしなかった。撮った写真を見返すと、どの一枚も、同じ商店街に見えた。自分がどこで撮ったのか、もう思い出せない。覚え書きの字も、後半へいくほど、丸く平らになっていた。わたしの字は、こんな字ではない。

その語が使われなくなったのは、七月十七日の昼過ぎだ。最後に測って分かったことがある。区画でいちばん細かい部分を失っていたのは、まわりではない。それ自身だった。良かったことにする働きは、最初に自分へ向いていた。だから幅が定まらなかった。大きすぎたからではない。商店街の人たちは今も、あの日は良かった、としか言わない。あの八百屋の主人が誰だったかは、もう誰も、正しくは言えない。良かった、で終わったものは、それ以上思い出されないからだ。

帰りに乗った電車の窓から、川べりに新しい遊具が一つ見えた。滑り台でも鉄棒でもない形をしていて、まだ名前がない。

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