まだ、が一枚多い

まだ、が一枚多い

語現体短冊反復

「ねえ、去年のって、なんて書いたか覚えてる」 笹の下で、浴衣の女の子が連れに聞いた。連れは首を振った。「覚えてない。書いたことだけ、覚えてる。中身は、どこにもない」

商店街の入口に、笹が一本立ててあった。夕方までに、短冊が三百枚を超えて下がった。書いた人は、みんな別の人だ。中身も、みんな別だった。同じなのは、形だけである。ますように。ますように。ますように。同じ日に、同じ形で、違うことを、大勢が書く。この行事のこわいところは、中身ではない。その一致の仕方のほうにある。違う願いが、同じ形をまとった瞬間、中身のほうが軽くなっていく。

短冊を書いている人に、順番に聞いた。「何を書きましたか」。みんな一度笑って、短冊を裏返す。中身のほうが恥ずかしいのだ、と傘を持った男が言った。だからみんな、形のほうを先に書く。「ますように」を先に書いて、その前を、あとから埋める。うまく埋まらない人もいる。それでも「ますように」だけは書いて吊るす。

翌朝、短冊はどれも同じ一行になっていた。筆跡は、どれも違う。違う筆跡で、同じ三文字が書かれていた。「まだ」。「まだ」で終わって、その先がない。数えたかぎり、全部が「まだ」で切れていた。

笹の下に、短冊の形をしたものが立っていた。細長くて、薄くて、下のほうだけが揺れている。紙とも布ともつかない。近づくと、濡れた墨の匂いがした。触れてもいないのに、指先がひやりとする。風はないのに、その下だけが揺れていた。近づくと、こちらの言いかけた言葉の、語尾だけを返してくる。「ますように」と言えば、「ますように」と返す。「ますように、ますように」と、いつまでも返す。でも、中身は返ってこない。願いを入れる器として現れたのに、器の形だけが実体になった。だから、入れるものが何もない。そばに立つと、こちらの持っているものを、勝手に量りはじめる。量られると、まだ持っていないもののほうが、先に数えられていく。

はじめの浴衣の女の子が、器のそばで、しばらく立っていた。連れが呼んでも、動かない。次に口をひらいたとき、女の子の声は、うまく終わらなくなっていた。「わたし、去年は」。そこで切れる。「来年こそは」。そこで切れる。どの言葉も、途中で「まだ」にすり替わって、その先が出てこない。願いも、思い出も、言いかけた形のまま、下だけが小さく震えている。器と、同じだ。女の子の口は、たしかに動いている。息も、声も出ている。それなのに、言葉の後ろ半分だけが、いつも消えている。抜けた場所から、あの濡れた墨の匂いがした。連れの子が手を引いても、女の子の足は、その場から動かなかった。連れの子が泣きだした。女の子は、なぜ泣かれているのか分からない顔をしていた。

書道の先生だけは、それに近づけなかった。この行事はもともと、願いを叶えてもらう日ではない。手先の技を上げます、と自分に誓う日だ。彼女はそれを正しく知っている。だから彼女の短冊には、「ますように」とは書いていない。「精進します」と書いてある。器は、その一枚だけが読めない。読めないものには、近づけない。近づけないものは、看取れない。彼女は自分の短冊を、声に出して読んだ。笹の下のものは、まったく揺れなかった。いちばん正しく知っている人の言葉が、いちばん届かない。届かないから、彼女は目の前の子を、助けられなかった。

「何と呼ばれたいですか」と尋ねた。「ますように」と返ってきた。それは答えではない。こちらの語尾だ。——直す。わたしは尋ねる前に、もう一度尋ねている。書いた順と、起きた順が合わない。灯番号 T-20260720-02 も、受け取った日より一日あとで控えてしまった。直さずに、そのまま置く。局にできたのは、揺れた回数を数えることだけだった。一分に十四回。次の日は一分に九回。減るほど、揺れ幅は大きくなった。弱っているのか、近づいているのか。最後まで分からなかった。数えているあいだ、わたしの数える声の語尾も、一度だけ、返ってきた。数字の終わりだけが、揺れて聞こえた。

薄くなるのは早かった。七日を過ぎれば、誰も書かない。書かれない語は、長くもたない。笹を片づける前に、短冊の枚数を数えた。三百十二枚。書いた人の数は、三百十一人だった。一枚、多い。その一枚には、何も書かれていない。けれど、何も書かれていないその書き方が、わたしの手のものだった。書いた覚えはない。——直す。覚えがないのではない。わたしは毎年、書かないことにしている。書かなかったことだけを、毎年、覚えている。今年は、その一枚の下が、少しだけ揺れていた。

駅前の自販機の横に、去年は無かった灯りが一つ増えていて、誰がつけたのかは、誰も覚えていない。

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