二十五度より下がらない
「手、貸して」と、その人は言った。夜の十一時だった。わたしは手を出した。にぎられた瞬間、ぞっとした。手のひらが、熱かった。ひとの熱ではなかった。風呂あがりでも、こんなに熱くない。台所の蛍光灯だけがついていた。窓は開けてあった。でも、入ってくる風のほうが、部屋より冷たかった。ここは鴇江市の東、川ぞいの古い団地だ。
この夏、鴇江市では「熱帯夜」という言葉が、あちこちで使われていた。天気の話ではなかった。眠れない夜の言い訳として、人から人へ渡っていた。同じ言葉を、同じ意味で、大勢が使う。すると、わたしの勤め先では、それが数字になる。今週その数字は、危ない線の一歩手前まで来ていた。灯番号 T-20260721-02。だから、わたしはここに来た。
その人を、増尾さんと呼ぶことにする。増尾さんは、この一週間、眠れていないと言った。「暑いからじゃないんです」と、念を押す。「暑いだけなら、諦めて起きてます。そうじゃなくて、夜が、起きてるんです」。わたしは尋ねた。「熱帯夜って、気温が下がらない夜のことですよね」。増尾さんは首を振った。「みんなそう言うけど、違う。気温が下がらないんじゃない。夜のほうが、下がるのを、いやがってるんです」。
同じ言い方を、その晩、何度も聞いた。隣の人も、階下の人も、口をそろえた。まだ起きている誰かがいる。だから夜が終わらないのだ、と。みんなの誤解は、もう同じ形にそろっていた。夜の熱は、ただの気温ではない。下がりたくない誰かが、畳に座っているのだ、と。
その晩、わたしは団地に泊まった。深夜、増尾さんの隣に、もう一人ぶんの重みがあった。畳が、へこんでいた。形は人に近い。でも、汗をかかない。熱を持っているのに、少しも冷えない。近づくと、においがした。昼にアスファルトを触ったときの、あのにおいだった。こういうものを、わたしの勤め先では宵残(よいざん)と呼ぶ。一晩に一体だけ。下がりきれなかった熱が、人の形を借りて座る。
わたしは、増尾さんの寝顔を見た。汗をかいていなかった。この暑さで、一滴も。手首に触れた。脈はある。でも、皮膚が、熱いままだった。熱が、逃げる先を無くしていた。増尾さんの熱が、隣の重みのほうへ、ゆっくり移っているようだった。宵残は、そのぶん、濃くなっていた。
わたしは温度計を見た。数字を読めば追い払える。どこかで、そう思っていた。「二十五度ちょうどです」と、正しく言った。すると、正しく言ったぶんだけ、それは畳の目を一つぶん、こちらへ寄った。もう一度、今度は小数点まで正確に読んだ。寄る幅が、そのぶん細かくなった。気温を知っている者は、気温にしか話しかけられない。数字は、宵残を追い払う言葉ではなかった。宵残のために、用意された椅子だった。
三度目に読んだとき、それはわたしの真横にいた。腕に、熱があたった。人肌より、少し高い熱だった。耳のそばで、息の音がした。わたしの息ではなかった。もう一度読めば、わたしの隣に、席が決まる。そう分かった。わたしは温度計を、そっと伏せた。声も出さなかった。伏せても、部屋は一度も下がらなかった。
わたしにできるのは、消すことではなかった。増尾さんには、眠らなくていいと伝えた。そして宵残の隣で、話を聞いた。何を、終わらせたくないのか。宵残は答えない。ただ、増尾さんには覚えがあった。子どものころ、寝つけない夜。母親が枕元で嘘をついた。「もう二十五度まで下がったよ、大丈夫」。増尾さんは、いまもその声を探していた。宵残は、その嘘の温度で、できているようだった。わたしは尋ねた。あなたは何と呼ばれたいですか、と。答えは、ここには書かない。書けるほど、はっきりとは聞こえなかった。その気配は、増尾さんの寝息と、同じ間隔だった。
朝が来た。外の気温が上がると、皮肉にも宵残は薄くなった。昼のほうが、ずっと暑い。でも、昼に「熱帯夜」と言う人はいない。使われない言葉は、保たない。三日して、増尾さんから電話があった。「眠れるようになりました」と、明るい声だった。よかったですね、とわたしは言った。でも、電話の向こうで、扇風機の音にまじって、もう一人ぶんの寝息が続いていた。規則正しい寝息だった。
増尾さんは、それを自分の寝息だと思っている。そして、「汗をかかなくなったんです」と、うれしそうに言った。「涼しくなったみたい」。ちがう。増尾さんの体は、もう冷えないだけだ。熱を、逃がせないだけだ。夏の終わりに、増尾さんはきっと気づく。まわりが涼しくなっても、自分だけが、ずっと温かいことに。わたしは、それを言わなかった。言えば、また正しく言い当ててしまう。そのぶん、また宵残を近くに寄せてしまう。誰も悪くない。増尾さんは眠れている。ただ、その眠りには、これからずっと、もう一人ぶんの寝息が混じる。そして、それは、もう戻らない。
団地の集会所の掲示板に、誰かが油性ペンで、一文字だけ書いていた。氷でも、冷でもなかった。まだ辞書に無い字だった。涼しさをあらわすためだけの、一画だった。書いた人は、たぶん、それが涼しいと知っている。
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