違和感と、反対尋問のない夜

違和感と、反対尋問のない夜

語現鴇江市違和感聴取記録頻度表

中通の商業ビルの四階、共用の廊下の突き当たりに、三人が横に並んで立っていた。誰も突き当たりに触れていない。三人とも、そこから一歩ぶん手前で止まって、同じ方向を見ていた。灯番号 T-20260904-02、受理は九月四日の午後六時四十分である。この記録を書いているのは九月五日の未明で、わたしはすでに、これから書く事柄の重さを知っている。読み進めるほど軽くならない種類の記録なので、順に開示していく。

早瀬の頻度表を見た。「違和感」という語の使用が、前週の同時刻に対して二十二倍になっていた。倍率そのものは記念日の語より小さい。だが記念日の語は日付が変われば落ちる。この語は日付を持たない。落ちる理由がない。

使われ方が変わっていた。本来この語は「なんとなく合わない」という保留の語である。判断を先送りするために置く語だ。ところが前夜から、保留のまま言い切ってよい、という使い方が回っていた。違和感がある、と言えば、それ以上の説明が要らなくなる。理由を述べずに結論だけを置ける語として、この語は都合がよかった。像は一晩で揃った。

第四課の聴取は、二人の担当が別々に同じ相手へ問う形をとる。一人が筋を立てて問い、もう一人が同じ筋を逆から問う。主尋問と反対尋問と呼んでいるが、法廷とは関係がない。誤解の像が一つに揃っているかどうかは、逆から問うたときに崩れるかどうかで分かるからである。

対象は中通の商業ビルの四階、共用の廊下で最初の申告があった三名。順に呼んだ。宣誓の手続きはない。あるのは、話し終えるまで遮らないという取り決めだけである。

一人目。主尋問では、廊下の突き当たりに「合わない何かがある」と答えた。何が合わないのかと問うと、言葉が出ないのが証拠だ、と答えた。逆から問うた。合っているものを一つ挙げてください、と。挙げられなかった。挙げられないことも証拠だ、と答えた。**この語は、反証の形をとれない。**そこが崩れた場所である。

二人目、三人目も同じ場所で崩れた。三人とも表現が違うのに、崩れる位置だけが一致していた。言い表す語が無い、という趣旨のことを三人とも別の言い方で述べた。速記の白河が、三通りの言い回しの共通部分を取り出した。共通部分は一語だけだった。

ここで休廷にした。局の建物の廊下は、聴取室から出て左に十四歩で突き当たる。わたしが十一歩目を数えたところで、突き当たりにそれが立っていた。

天井のない証言台の形をしている。高さはわたしの胸のあたり。木でできているように見えるのに、木目が一本もない。既存の分類に当てはまらない。表面は乾いていた。触れて手を離すと、乾いていたはずの表面ではなく、こちらの指のほうが湿っていた。差聴(さちょう)と記録した。

話しかけると、話し終える前に、こちらの言い終わりの語を先に返してくる。「あなたは何を」まで言った時点で、差聴は「ですか」と返した。わたしが言うつもりだった語である。二度試した。二度とも合っていた。三度目は何も言わずに立っていた。差聴は待っていた。待つ、という語が正しいのかは分からない。

白河が記録を突き合わせた。差聴が先に返した語を、その後に実際に口から出した者は一人もいない。三名の聴取記録でも同じだった。先に返された語は、返された時点で誰の口からも出なくなる。**移った先は最後まで分からなかった。**

早瀬が、山の岩に張りつく地衣類の話を持ち出した。氷堆石の上に張りついたものは、直径を測れば、その岩がそこへ運ばれてからの年数の下限が出るという。成長の速さは、年代の分かっている墓石の上で測って求める。数字にすれば怖くない、と早瀬は思っている。わたしは、その手順が正しいから怖いのだと思った。**測れるのは下限だけである。それより古いかどうかは、どの測り方でも出てこない。**

四階の管理人の柏木さんは、この語を正確に理解していた。四十年、共用部の苦情を聞いてきた人である。「違和感がある、と言われたら、まず何が違うのかを聞き直す」と柏木さんは言った。手順として正しい。正しさは何の役にも立たなかった。聞き直すには、相手の言い終わりを待たなければならない。柏木さんは待った。待ったぶんだけ、差聴が先に返した。

対処はない。差聴を消す方法を、わたしは知らない。できるのは三つだけである。話し終わりまで言い切らないこと。言い終わりの語を先に書いておくこと。そして、誰かがそれを記録し続けること。柏木さんには三つとも伝えた。伝えた時点で、柏木さんはもう四度返されていた。取り戻す手順は、この世界に無い。

判決は出さない。第四課の聴取に判決という段はなく、この記録も何かを確定させるためのものではない。九月五日の午前二時、頻度表は落ち始めていない。落ちる理由がないのだから当然である。

わたしの記録の余りの字が、二つから三つに増えていた。書いた覚えのない一行がある。書き直しても、翌朝また増えているのだろうと思う。

この記録の最後の一文を、わたしはまだ書き終えていない。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「チズゴケ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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