新学期と、一つ多い椅子

新学期と、一つ多い椅子

語現体鴇江市新学期記録

新学期だね、と向かいの席の人が言った。九月三日の午後である。学校の話ではなかった。その人が見ていたのは、部屋の隅に寄せてある椅子だった。前の週まで、そこに座っていた者がいた。いまは別の者が座っている。それだけで、新学期だね、と言われていた。

受理はその夜である。灯番号は T-20260903-02 とした。

市内での「新学期」の使用が、先週の五倍を超えたと聞いた。学校の始まりと、市の施設の説明会が重なった週である。学校について話した者の数は増えていない。早瀬のグラフには、いつもの細かい揺れが乗っている。理由は書かれていない。毎回乗っているので、誰も書かなくなった。

新学期は、学期が改まることである。わたしはそう習った。鴇江市では違う揃い方をした。人々は新学期と言うとき、いまその場にいる者が入れ替わることを指していた。七割の使用で、話し手は学校の話をしていなかった。像は人のほうで揃った。

聞き取りは市の施設の第三会議室で行った。交差点の角に建っている。三階である。窓は一枚だけあり、はめ殺しで開かない。扉は一つ。その扉の上に、出口、と書いた札が下がっている。札は建てられたときからあると聞いた。ところがこの階に、出口はない。札の示す先は隣の会議室で、そこからも外へは出られない。札だけが残っている。

換気扇は終日回っている。止め方を知る者はいないという。音は低く、聞いているうちに聞こえなくなる。

その部屋に、わたしを入れて四人いた。白河と、施設の担当者と、説明会に来ていた者が一人である。名前は書かない。椅子は五脚あった。

記録は書式に従う。第四課の書式である。以下は聞き取りのとおりに書き写した。

手順1 部屋に入り、扉を閉めます。

手順2 いま部屋にいる人の数を確かめます。

手順3 椅子の数を確かめます。

警告 椅子を、その日のうちに二度数えないでください。数えた数だけ増えます。

手順4 多いぶんの椅子を、部屋の外へ運び出そうとします。

手順5 運び出せなかったことを、記録に書きます。

「次の場合は使用しないでください」の項に、それは現れる。

・その語が本来何を指すかを、正しく知っている場合。

正しく知っている者は、新学期と聞くと机の並びを数える。習ったとおりに数える。数えているあいだに、椅子が足される。数えた者は、足されたことに気づかない。数え終えた数のほうを覚えているからである。

ここまでが書式の写しである。以下は地の文に戻す。

多い椅子は、誰も座っていない。座った跡はある。座面のへこみと、背もたれの角の擦れである。新しい擦れではない。長く使われた椅子の擦れであった。担当者は、この部屋の椅子は四脚だと言った。台帳にもそう書いてあると言った。台帳を持ってきてもらった。四脚と書いてあった。数は消えていない。数だけが残っている。

白河が一脚を運び出そうとした。持ち上がった。扉の手前まで進んだ。そこで止まった。重さがあるのではない。運ぶという動作のほうが、途中で終わる。白河はもう一度やった。同じところで終わった。白河は椅子を置いた。それから、換気扇の音が高いですね、と言った。わたしの言い方である。訂正しなかった。

白河は新学期を正しく知っている。学校で教わったと言っていた。だから聞き取りのあいだ、白河は二度、椅子を数えた。二度とも、そのあいだに一脚増えていた。増えたことを白河は知らない。わたしは書き留めた。書き留めただけである。

説明会に来ていた者に尋ねた。何と呼ばれたいですか。答えはあった。書き留めていない。書き留めない決まりである。

それから、話を聞いた。長くはなかった。その者は、この部屋には前から五脚あったと言った。担当者は四脚だと言った。二人は一度も言い合いにならなかった。互いに、相手が別の日の話をしていると思っていた。同じ日である。同じ部屋である。それでも、数だけが合わなかった。

聞きながら、手順3をもう一度読み返した。椅子の数を確かめます。この文には、人がない。新学期という語の写しなのに、学期も学校も出てこない。人々の使い方がそのまま書式になっている。書式のほうが先にできたわけではない。順番は逆である。

担当者は、新学期という語を知らないと言った。聞いたことはあるが、意味は考えたことがないと言った。その者の周りでは、椅子は増えていなかった。増えていないことに、その者は気づいていない。増えていないので、気づきようがない。

扉は閉めたままだった。誰も外へ出なかった。出口と書いた札の下で、四人が座っていた。椅子は、そのとき六脚あった。わたしは数えていない。数えたのは白河である。

対処はない。多い椅子を減らす方法を、わたしは知らない。知らないことを知らないと書くのが、この記録の役目である。できるのは二つある。数えないでいること。運び出そうとしないこと。それだけである。それだけを残す。

九月の下旬になった。新学期という語の使用が減った。増える速さは落ちた。落ちただけである。第三会議室の床に、脚の跡が薄く残っている。跡は消えない。台帳の四脚と、同じところにある。

誰も来ない棟の窓に、灯りが一つ増えていた。前の記録では七つだった。今夜は八つある。換気扇は止まっていた。訂正する。止まっていたのは音で、羽根はまだ回っていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ビーチ60丁目駅」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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