いちばん暑い日ということになっている
西向きの窓に、簾が二枚かかっていた。一枚では足りない、と戸川さんが言ったからだ。簾の隙間から、光が縞になって畳に落ちていた。畳は、触ると熱を持っていた。戸川さんは、扇風機を止めていた。回すと、熱い風が来るだけだから、と言った。わたしはうなずいて、畳に座った。
鴇江市は、黙の三週目に入っていた。声に出して言う語が、目に見えて減っている。駅前の放送も、切られたままだ。それでも、紙は黙らない。どの家の壁にも、暦がかかっている。明日のところに、小さな字がある。人はそれを、声に出さずに読む。読むだけでも、像は揃う。揃った像は、声に出したときと、まったく同じ形になる。
わたしは八人に、同じことを尋ねた。八人が、同じことを答えた。明日が一年でいちばん暑い日で、そこを越えれば、暑さは下がっていく、と。金物屋の女性は、去年もそうだった、と言った。中学生は、そういう決まりだと思っていた、と言った。でも、暦のその字は、太陽の位置を示す目盛にすぎない。気温の最大とは、関係がない。それを、八人のうち誰も言わなかった。わたしも、言わなかった。言えば、言ったぶんだけ、像に足すことになる。
廃商店街の三軒目に、空いたままの店がある。前にも、別の記録で歩いた道だ。シャッターが、半分だけ上がっていた。しゃがんで入ると、外より涼しかった。涼しいのに、奥の一点だけが、白く見えた。白いものは、人の背丈ほどあって、輪郭が無かった。焦げた埃のような匂いがした。近づくと、こちらの熱が、すっと向こうへ流れていくのがわかった。暑いのに、肌が冷えていく。わたしは、驚かなかった。床に、ビニール紐が一本落ちていた。拾って、丸めて、上着の袋に入れた。
早瀬さんが、温度計を持ってきた。店の中は二十七度、外は三十四度だった。数字は、どちらも正しい。早瀬さんは説明した。暦のあの字は、太陽が決まった位置に来る日を指すだけだ、と。説明は、合っていた。合っていても、白いものは、そこにあった。白いものは、その場でいちばん熱いもので、なければならない。だから、周りから熱を取り上げて、自分が最大になる。取り上げる順は、近い順だ。早瀬さんは、温度計を、いちばん近くで構えていた。
早瀬さんの汗が、一粒、頬の途中で止まった。そのまま、乾いた。早瀬さんは、気づいていない。わたしは、温度計を少し下げてもらった。下げても、順は変わらなかった。その日から、早瀬さんは、熱いと感じない。寒いとも感じない。夏の盛りに、熱い薬缶に触れても、手を引かない。冬が来ても、上着を探さない。温度計は、読める。読めるだけだ。合っている人から、順に取られたのだと思う。思うだけで、確かめる方法は、無い。
戸川さんの家は、その週から涼しくなった。簾を一枚しまった、と、戸川さんは嬉しそうに言った。畳も冷たくなった、という。困っている人は、一人もいなかった。商店街の風下の三軒も、みな涼しくなった、と言っていた。涼しくなったぶんが、どこへ行ったのか。それを気にする人は、いなかった。夜になって、風下の四軒目の人が来た。うちだけ、涼しくならない、と言いに来たのだ。四軒目は、角を曲がったところにある。近い順、というのは、道の順ではないらしい。翌朝、その人の家も、急に涼しくなった。本人は、喜んでいた。
わたしは白いものに、何と呼ばれたいですか、と尋ねた。答えは、あった。ここには書かない。それから、そばに座って、聞いていた。退ける手立ては、無い。減らす手立ても、無い。できるのは、そこに居て、話を聞いて、終わりまで見ていることだけだ。座っているあいだ、指先の熱が、抜けていくのがわかった。でも、抜けきらなかった。わたしからは、なぜか、いちばん最後まで取れないらしい。理由の欄は、空けておいた。
日が変わった。暦の目盛は、進んだ。誤解によれば、ここから下がるはずだった。下がらなかった。三十五度が、四日続いた。人は、今年は暦を過ぎても下がらない、と言い合った。言い合うたびに、その語が使われる。声に出せない者は、暦を指でさして、同じことを伝えた。使われているあいだ、白いものは、薄れない。わたしは、間に合わなかった。
白いものは、今も三軒目にいる。日に一度だけ、少しだけ小さくなる。次の日には、もとに戻る。小さくなる時刻は、毎日ずれていく。ずれ方に、決まりは、見つからない。見つからないので、時刻だけを書いて、置いてある。早瀬さんは、いつもどおりの字を書いて、いつもどおりの時間に帰っていく。汗を、もうかかない。
その日は曇りだった。書いてから、曇りではなく、薄い曇りだった、と直した。帰りに、商店街の入口で、まだ名前のついていない色の傘が一本、閉じたまま立てかけてあった。わたしは自転車の鍵を開けて、押して帰った。
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