戻り道が、一歩ずつ長くなる
八月二十四日の夕方、鴇江市の北口駅で受理票を書いた。届出人は駅の案内係の男性である。四十代だった。わたしは灯番号にT-20260824-02と書いた。受理したのは二十四日である。ただし届出書の日付は二十三日になっていた。書き直さなかった。ずれたまま綴じた。
この駅には三つの路線が乗り入れている。市の東側にとっては最寄り駅にあたる。開業は古い。改札の柱に、開業の年を刻んだ板が残っている。案内係はその板の前で話した。
六日間で、市内における「ダークパターン」の使用が例年の九倍を超えた。ここまでは数字の話に過ぎない。問題は中身である。使用の八割で、話し手はだましの話をしていなかった。
ここで一度、四日前に戻る。折り返しは一度だけである。往きも復りも、これきりにする。
八月二十日の昼、券売機の前で最初の言い方が出た。並んでいた人が言った。あれはダークパターンだ、と。だましたわけではない。表示は正しかった。ただ、前の画面に戻る手段が無かった。それだけである。
案内係はその場に居た。彼は説明しようとしたという。ダークパターンというのは、だます作りのことです、と。相手は聞かなかった。戻れないんだから同じでしょう、と言われて終わった。彼はそれ以上言わなかった。言っても通らないことが、その時点で分かったからである。
言い方はその日のうちに広まった。ただし広まったのは意味ではなく、形のほうだった。定期を解約しようとして手順が戻せない。乗り換え案内で一度先に進むと選び直せない。どれもだましてはいない。戻れないだけである。人はそれを全部ダークパターンと呼んだ。
二十一日には、駅の外にも出た。傘立ての鍵が戻せないこと。回転扉が逆に回らないこと。並んだ列を抜けられないこと。どれも設計者に悪意は無い。それでも同じ語で呼ばれた。語は五日で、だましから戻れなさへ移った。
つまり、こういうことになる。この語は本来、人をだます作りを指す。ところが鴇江市では、だましの部分が落ちた。残ったのは戻れなさだけだった。像はその形で揃った。ここまでが過去側である。
折り返す。八月二十四日の夕方に返る。折り返しは、これで一度きりである。
語現体は改札に出た。姿は無い。止めもしない。通れば通れる。変わるのは復りのほうだけである。一度通るごとに、戻る道が一歩ぶん長くなる。塞がれるのではない。長くなる。
案内係は数えていた。朝は二歩だったという。夕方には七歩になっていた。同じ通路である。距離を測ると変わっていない。それでも歩数だけが増える。
わたしも歩いた。改札を出て、戻る。往きは十四歩だった。復りは十九歩あった。もう一度やると、復りは二十歩になった。往きは十四歩のままである。増えるのは片側だけである。
三つの路線のうち、どれで来たかは関係なかった。定期でも切符でも同じである。急いでいる人ほど気づかない。気づくのは、待ち合わせをしている人だった。相手が戻ってこないからである。
券売機の画面を設計している女性が居合わせた。彼女はこの語を正しく知っていた。だから、だます仕掛けを探した。隠された同意欄、初期選択、小さすぎる文字。探せるものを全部探した。何も無かった。改札は正直だった。表示はすべて正しく、隠したものが一つも無い。
抵抗するものが無いので、彼女は抵抗できなかった。正しく知っている、というのはそういうことである。彼女はこの日、いちばん多く改札を通った。戻る道がいちばん長くなったのも彼女である。
案内係のほうは、戻れなさの意味で覚えていた。だから復りだけを見た。歩数を数えたのも彼である。誤って覚えたほうが、先に気づいた。
わたしは退治をしない。聞いて、書くだけである。わたしは改札に向かって尋ねた。何と呼ばれたいですか、と。答えは返った。記録には残していない。
それから、二人に一枚ずつ置き手紙を書いてもらった。戻ってこられなかったときのために、いま何を思っているかを書く。読み返す予定は無い。記録は、そのために取るものではない。
それから復りの歩数を測った。増え方には規則があった。一日の使用が減った時間帯だけ、増えるのが止まる。減れば止まる。戻りはしない。
二十六日以降に言及が減れば、増加は止まると早瀬は予測している。予測であって、確認ではない。彼女のグラフには、いつもの小さな揺れが今日も乗っていた。
止まる、というのは元に戻ることではない。長くなった道はそのまま残る。薄れても、歩数は減らない。ここまでは説明がつく。
つかないのは切符のほうである。案内係の切符には往復の券が付いていた。復りの券に、打刻が二つある。折り返しは一度だった。本文でも一度と書いた。彼が歩いたのも一度である。それでも二つある。一と二は、どの記録でも合わないままだった。
帰りに、市の南側で街灯を一本余計に見た。地図には無い場所だった。数えたのはわたしだけである。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「デービス駅 (カリフォルニア州)」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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