処暑のあと、だれも暑いと言えなくなった銭湯
湯気の匂いが残る脱衣所で、扇風機が首を振っていた。番台が万年筆の蓋を外し、帳簿を開く。わたしはその向かいに立って、申告を受け取った。灯番号 T-20260824-01、受理は八月二十四日の午前六時十分である。申告者は鴇江市末広町のこの銭湯の番台で、氏名は書かず整理番号でのみ記す(第四課受理簿・整理番号 8-1130)。統計官の早瀬からは、前日のうちに照会が来ていた。八月二十三日の午後、市内で「処暑」という語の使用が三日ぶんの平均の十四倍に跳ねた、という内容だった。跳ねること自体は珍しくない。問題は、使った人たちの像がそろっていたことである。
像がそろう経路も、あとから追えた。前日の夕方、市内の掲示や書き込みに同じ言い回しが並んでいる(照会結果 8-1129・八月二十三日十七時から二十一時の抽出)。今日で暑さは終わり、明日からは秋。誰か一人が言い出したわけではない。全員が少しずつ言い、少しずつ写した。加害者は全員であり、同時に誰でもない。この形が一番やっかいだと、受理簿には何度も書かれている。
わたしは洗い場で聞き取りをした。桶が床に当たる音が、一定の間隔で鳴っていた。証言はどれも同じ形をしていた。処暑とは暑さが終わる日である、と八人全員が言った(聞き取り八件・八月二十四日午前七時から八時)。暦の上では、処暑は暑さがやわらぐ目安の頃を指すだけである。終わりの宣言ではない。だが、そう知っている者はこの場に一人しかいなかった。
その一人が番台だった。番台は帳簿を万年筆で書く人である。ペン先が紙に引っかかる音が、話のあいだじゅう続いていた。番台は暦の説明を三度くり返した。処暑は目安であって終点ではない、と。そのたびに常連の返事は同じだった。でも、もう終わったんでしょう。番台の声はそこで止まった。正しく知っていることは、この場では何の役にも立たなかった。
同行した新人の白河も、正しい意味を知っていた。彼は聞き取りの合間に、暦の定義を三人に説明した(記録 8-1130 附箋)。三人とも最後まで聞いてから、同じことを言った。でも、今日から涼しいですよね。白河は説明を四度目でやめた。彼が黙ったのは、言葉が足りなかったからではない。合っている言葉ほど、この場では通らないと分かったからである。
午前十一時四十分、湯気が濃くなった。早瀬の測定では、この十分間だけ湯気の密度が通常の三倍を示している(測定記録 8-1131)。湯気の中に輪郭が一つ立った。人の形ではない。湯気そのものが少しだけ厚くなった場所、と書くのが正確である。近づくと、体温よりわずかに高い面に触れた感じがした。匂いはしない。音もしない。それは湯船のふちに沿って動いた。そして触れられた人から、順に「暑い」という語が抜けていった。
被害は目に見えた。三番目に触れられた男性は、そのあと汗をかかなくなった(八月二十四日午後零時二分・脱衣所で確認)。顔だけが湯上がりの赤みのまま動かない。体重計に乗ったが、針の位置は前の週と同じだった。暑いですかと尋ねると、口は開くのに音が出ない。もう一度尋ねると、彼は暑という字が読めないと答えた。読めないのではなく、あの字はもう自分のものではない、という言い方だった。彼はそれを、落とし物の話をするような調子で言った。
わたしにも一度だけ及んだ。記録用紙の三行目に書いた「暑」の字が、見ているあいだに薄くなった。書き直すと、また薄くなった。三度目でようやく残った。そのとき湯気の中から声がした。わたし、と言った。わたしが地の文で使うのと同じ書き方だった。手が止まったのは、その一瞬だけである。
退治の手順は持っていない。局は隠すことだけがうまく、防ぐことはできない。だから、いつもどおりに尋ねた。何と呼ばれたいですか、と。答えはあった。だが記録しない。それから閉店まで、湯気のそばに座って話を聞いた。話の中身は、暑いと言えたころのことばかりだった。番台は帳簿を書き続けていた。ペン先の音だけが、時間の目盛りのように残った。
午後十一時、暖簾が下ろされた。湯を抜くと、湯気は急に薄くなった。語の使用も落ちた。処暑という語は、その日の終わりには平均以下に戻っている(早瀬の集計・八月二十五日午前一時)。ただし薄れることは消えることではない。タイルの目地には、測れないほど小さい残りがある。番台は帳簿の余白に、その日の湯温を二度書き直していた。
男性は戻らなかった。八月二十六日に再確認したが、暑という字は読めないままだった。本人は困ってもいなかった。この記録を次に読むあなたへ、一つだけ書いておく。あの脱衣所の床は、水を流したあとも一箇所だけ乾くのが遅い。そこに素足で立つと、足の裏が湯上がりよりわずかに熱い。
(訂正)昨日の記録に涼しい夜だったと書いたが、涼しくはなかった。ただ、風が一度だけ通った。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「オスミウム」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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