半分だけが友達
七月の雨が、軒の縁から一本ずつ、まっすぐ落ちていた。乾物屋の女は、濡れた前掛けのまま出てきた。雨だれの列を、ひとつだけまたいで、わたしを中へ入れた。末広商店街の、通りの西側の店だ。三日前から、帳場に見知らぬ客が座っている、という。追い出さないのですか、と訊いた。女は首を振った。追い出す理由が、半分しかないのだ、と言った。
帳場の客は、右半分と左半分で、まるで別の人だった。右手で乾物の箱を運ぶ。釣り銭の誤りを、黙って直す。右の頬には、体温がある。でも、左は違った。触れると、氷のように冷たい。そして帰りぎわ、左を向いて、必ず一言だけ言う。「この店の品は、湿っている」。左が喋るあいだだけ、店の空気が、すっと冷えた。声は、どちらの側からも、同じ高さで出た。
語の届出は、前の週に出ていた。仲のよくない相手を、ひとことで呼ぶ言い方だ。外の言葉の音を、二つ継いだ呼び名だという。友を指す音と、敵を指す音。意味は、初めから二つに割れている。学校の生徒が使いはじめ、それが商店街の若い店員に移った。同じ一日のうちに、数えきれない回数だけ、口に出された。この受理には、灯番号 T-20260719-01 がついた。
その呼び名を使った人に、意味を訊いて回った。八百屋の店員は言った。「仲がいいのに、嫌いな相手のことです」。隣の菓子屋の娘は言った。「嫌いなのに、仲がいい相手のことです」。二人は同じ学校を出て、同じ相手を、そう呼んでいる。どちらも間違っていない。局の教本にも、そう書いてある。でも、この街では、二つを合わせて一人にする人が、いなかった。「友達」のところで一度切って、残りを別に置く。その覚え方が、三日で、端から端まで揃った。
第四課の白河は、その語の成り立ちを、正しく知っていた。友の語と、敵の語をつないだだけだ。一人の人の中に、その両方がある。それだけの意味だと、帳場の客に説明した。客は、最後まで聞いていた。聞き終えると、白河の右側にだけ、向き直った。左側には、二度と顔を向けなかった。
次の日から、白河は半分になった。左から声をかけても、聞こえない。右から呼べば、返事をする。会議では、彼の左隣の椅子が、いつも空いた。誰も、そこに座る気になれない。理由は、誰にも説明できない。白河自身は、気づいていない。自分の説明の、どこが間違っていたのか、と、いまもわたしに尋ねる。間違ってはいなかった、とだけ答えた。正しさは、彼が半分になるのを、防げなかった。
女にも、変化が出はじめていた。客に親切にされた翌朝から、女は、古い友達の顔を、半分しか思い出せなくなった。名前は、出る。声も、出る。でも、その人と過ごした時間の、ちょうど半分が、抜けていた。抜けた側に、何があったのか。女にも、もう分からない。半分だけが、友達として残った。
二日目の昼、女は客に茶を出した。茶碗は、二つ出た、という。客は、一人しかいない。なぜ二つ出したのか、女は自分でも説明できなかった。茶は、両方とも減っていた。向かいの荒物屋の主人も、店先まで来た。あの客は、二十年前この通りで働いていた男に似ている、と言う。似ているのは横顔だけだ。正面から見ると、誰でもない。わたしが正面を見に行くと、客は椅子を立ち、棚の高いところへ手を伸ばしていた。顔は、最後まで横しか見えなかった。
わたしは客に尋ねた。「何と呼ばれたいですか」。すると客は、はじめて、右と左の両方を、いちどにこちらへ向けた。冷たい左側が、わたしの耳のそばまで、寄ってきた。そして、ある名を、言いかけた。わたしは、それを書き取らなかった。言い終えたかどうかも、書かなかった。書き取らないことに、している。
三日目の朝、若い店員たちは、その呼び名を使わなくなっていた。学校が休みに入り、呼ぶ相手が散ったからだ。帳場の客は薄くなった。薄くなり方には、順があった。左の輪郭から先に、消えていく。右側は、女が表の戸を閉める時刻まで残った。そして最後に、箱をひとつだけ、棚へ戻した。
この商店街の床は古い。こういうものが、よく沈む土地だ。以前の記録を繰ると、同じ番地で、無関係な語現体の受理が、いくつも続いていた。番地は毎回同じで、店の名だけが違っていた。薄れたものが、消えたわけではない。わたしは記録に、沈んだ、とだけ書いた。次の梅雨に浮くかどうかは、書かなかった。
帰りぎわ、女がもうひとつ話した。そのまま写す。「あれは半分ではありませんでした。はじめから二人いたのを、みんなが一人だと思っただけです」。二人はいつも同じ時刻に来て、同じ椅子に、順番に座っていた、という。戸口の鈴は、客が入るたびに鳴る。女は毎日、鳴った数を帳簿の隅に書く癖があった。三日ぶん、残っていた。一日につき、一度きりだった。
商店街の外れ、自販機の脇に、去年から生えている草がある。まだ名前がない。
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