賃貸物件と、続きから始まる部屋

賃貸物件と、続きから始まる部屋

語現鴇江市賃貸物件商店街有線放送

八月二十八日の午前九時。鴇江市の末広商店街で、わたしは有線放送の実況席に座っている。灯番号は T-20260828-01 として受理する。以下は、聞きながら書いている記録である。

実況をしているのは、商店街の一角にある不動産屋の店主、鶴見さんだ。六十代の穏やかな人で、二十年この商店街にいるという。毎朝九時の時報のあと、空いた部屋をひとつ選んで、店から中継する。スピーカーは商店街の柱に十二本ある。

「ただいま二階の角部屋に入りました。日当たり、よろしいですよ」

「よかったですね」と、放送を聞いている八百屋の奥さんが、わたしの隣で言う。

「ほんとに。ここは愛称もあるんですよ。『こもれび』って、前の方が付けていかれてね」

「いい名前」

「ね。そのまま使ってもらってます」

この一週間、この商店街の周りで「賃貸物件」という語の使用が急に増えている。ふだんの五倍だと早瀬さんの表が言っている。ふつうこの語は、部屋を借りる契約の話と一緒に出る。ところがここでは、意味がひとつずれている。

「うちで賃貸物件っていうのはね」と鶴見さんが放送で言う。「前の方の暮らしを、次の方が続けてさしあげる部屋のことです」

わたしは聞き返さない。言い方があまりにふつうだからだ。放送を聞いている人たちも、誰ひとり聞き返さない。

「鶴見さんはお上手ですよ」と、通りかかった米屋の主人が言う。「前の方がどこにお茶碗を置いていたか、ちゃんと覚えてらっしゃる」

「覚えてるんじゃなくてね。置いてあった場所に、そのまま置いてるだけですよ」

「それが親切ってものです」

十時になる。時報が鳴る。放送が続く。

「繰り返します。二階の角部屋、続きからお住まいいただけます」

商店街の掲示板には、最寄り駅の駅番号と時刻表が貼ってある。その隣に、部屋の間取り図が七枚。どれも同じ間取りで、愛称だけが違う。振興協議会が刷ったものだと、八百屋の奥さんが教えてくれる。

「みなさん親切でしょう。誰も困ってないんですよ」

「困ってる人がいたら、教えてくださいね」とわたしは言う。

「いませんよ。だってみんな、続きから始められるんだから」

早瀬さんから電話が入る。使用量の線は今朝から立っている。収束の帯に入るのは今日の昼だという。数字にすれば怖くない、と早瀬さんはいつも言う。今日は言わない。

十時四十分。顕が始まる。

放送が途切れる。

…………

十時四十四分。放送が戻る。鶴見さんの声が戻る。声は同じだ。言葉が減っている。

「ドアです。ドアがあります。開きます。中はドアです」

わたしは店に入る。玄関の三和土に、ドアが一枚だけ立っている。人の背丈ほどある。枠はない。壁もない。鍵の束が把手から下がって、揺れている。開ける。向こうにあるのは同じ玄関だ。もう一枚のドアがある。そのまた向こうも同じだ。奥へ行くほど、三和土に置かれた靴の数が増えている。

これが今回の語現体だ。ひとつだけだ。

鶴見さんはドアの前で靴を脱ぐ。脱いだ靴を、揃えて右に置く。誰かがそうしていたからだ、と本人は言えない。言葉が減っているからだ。

「よかったですね」と、あとから来た米屋の主人が言う。「鶴見さん、続きから始められて」

「よかったです」と鶴見さんが答える。

店の棚に、宅地建物取引士の免状が飾ってある。鶴見さんは正しい意味を知っている人だ。賃貸物件が契約の話だと知っている。知っているから、放送で毎朝いちばん最初に、その語を口にしてしまう。正しく知っている人が、いちばん早く続きを始めている。免状を持たない八百屋の奥さんは、まだ自分の靴を履いている。

わたしはドアに近づく。中継はまだ流れている。時報だけが正確に鳴る。

「何と呼ばれたいですか」とわたしは尋ねる。

ドアが少し開く。閉じる。返事はない。わたしは記録しない。

わたしにできるのは、鍵の束を数えることだけだ。今日は十四本ある。昨日の記録より一本多い。増えた鍵が、どの部屋のものかは分からない。把手を握ると、握った形が少しだけ残る。わたしの手の形ではない。

第四課の手順どおり、わたしは放送の停止を頼まない。止めても薄れないからだ。局にできるのは、隠すことと、数えることと、最後まで見ていることだけである。代わりに、鶴見さんの隣に椅子を置いて、明日も朝の九時から座る。わたしが担当した語現体は、ほかの聞き手のときより薄れるのが早い。理由は書かない。

十一時。八百屋の奥さんが、鶴見さんにお茶を出す。湯呑みを置く場所が決まっている。奥さんは何も言わずにそこへ置く。

「よかったですね」と、奥さんがもう一度言う。

「よかったです」と鶴見さんが答える。言葉が減っているので、そこまでしか言えない。

わたしは椅子を少し前に出す。ドアが見える位置にする。放送はまだ続いている。今日はここまで書く。

外は曇りだ。いや、薄日は差している。商店街の東の端で、看板のない店の灯りが一つ増えている。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「福知山市民病院口駅」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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