新事実と、増える一行

新事実と、増える一行

語現鴇江市新事実印刷夜勤

八月の終わりの、夜の十時だった。鴇江市の東にある小さな印刷所の休憩室で、わたしは三人から話を聞いた。灯番号は T-20260827-02 として受理した。以下は、そのときの記録である。

最初に話したのは、断裁を担当している宮田さんだった。五十を過ぎた人で、この工場に二十二年いるという。「うちでね、新事実っていうのは、刷り直すたびに一行増えるもののことなんですよ」。わたしが聞き返さなかったのは、言い方があまりにふつうだったからだ。

その週、この工場の周りで「新事実」という語の使用が急に増えていた。七日間で、ふだんの六倍だった。ふつうこの語は、報道や裁判の話と一緒に出る。ところがこの工場は違った。従業員十九人のうち十六人が、報道の話をひとつもせずにその語を使っていた。数え直したが、比は変わらなかった。

同じ夜の十時半、宮田さんは長く続けて話した。そのあいだ、わたしは相槌しか打たなかった。

「もとは手順書です。三年前に作ったやつでね。刷り直しのときは訂正を一行だけ足す、って決めたんです。二行足すと版がずれるから、一行。それを守ってきました。で、手順書の後ろに用語の欄があるんですよ。そこに誰かが書いたんです。新事実、刷り直すたびに一行増えるもの、って。たぶん説明のつもりだったんでしょう。誰も直さなかった。直す理由がなかったんです。うちでは新事実といえばそれのことでしたから。若い子が入ってきても、そう教えます。損紙を減らすには一行にとどめろ、それが新事実だ、って。二十二年いますが、この工場で新聞の話をしたことは一度もありません。それだけです」

夜の十一時、わたしは工場の奥に入った。刷了の棚がある区画で、部数を数え終えた紙が積んである場所だ。

そこに立っていた。人の胸ほどの高さの、紙の束だった。四辺が断裁したようにそろっていて、隙間がなかった。近づくと、一番上の紙に文字が増えた。一行だった。しばらく見ていると、また一行増えた。増えるだけで、減らなかった。インクの匂いはしなかった。わたしはこれを言い表す語を持っていない。管理局の分類のどこにも当てはまらない。とりあえず、ふえがみ、と書いた。

深夜の一時、二人目の話を聞いた。校正を担当している若い人で、名前は伏せる。

「校合のとき、前の刷りと突き合わせるじゃないですか。前は十四行だったのに、十五行あるんです。増えた一行は、誰の字でもないんですよ。うちの版下の字でもない。それで前の刷りを見に行くと、そっちも十五行になってるんです。数え間違いかと思って三回やりました。三回とも増えてました。……宮田さんに言ったら、そういうものだって。それだけです」

深夜の二時、工場長の芳賀さんが割って入った。この人は正しい意味を知っていた。新事実というのは、それまで知られていなかった事柄が新しく判明することだ、増えるとか減るとかいう話ではない、と説明を始めた。ふえがみは芳賀さんのほうを向きもしなかった。正しい意味は、この工場では一度も共有されていない。共有されていない像は、力を持たない。芳賀さんの声は棚のあいだにしばらく残り、それから短くなった。

同じ夜の二時半、増えているのは紙だけではないと分かった。宮田さんが、娘の名前を言えなくなっていた。忘れたのではない。代わりに、手順書の一行を言った。損紙を減らすには一行にとどめろ、という文だった。増えた一行が、覚えていた一行と入れ替わっていたのだ。増えるほうを数えていて、減るほうを数えていなかった。

夜が明けてから、休憩室で三人目の話を聞いた。工場の裏手で椎茸を育てている人だった。この人はふえがみを見ていない。

「裏の榾木で、担子菌のきのこを出してるんです。ハラタケ綱のやつでね。子実体が出るまでは何も見えないでしょう。木の中にはもう回ってるのに、外からは分からない。あれと同じですよ、これ。……増えてるのは前からで、気づいたのが今週だっただけです。それだけです」

わたしは退治の道具を持っていない。持っていたこともない。することは決まっている。聞いて、書くことだ。

棚に戻って、いつもの質問をした。何と呼ばれたいですか、と。返事はなかった。代わりに、一番上の紙に一行増えた。読める字だった。読んだあと、その行を覚えていられなかった。手帳を開くと、前の晩に書いた行が一つ消えていた。書いた覚えのない空白ではない。書いた覚えのある行の、あった場所だけが空いていた。そこで棚を離れた。

九月に入って、手順書の用語欄が書き直された。新事実の項が消され、刷り直しの訂正は一行までという運用だけが残った。語が読まれなくなると、束は薄くなった。四辺のそろい方から先に崩れて、紙の高さだけが残った。それも四日で膝の下まで下がった。他の聞き手が担当した記録より、薄れるのが早い。理由は書かない。最後まで見ていたのはわたしだけだった。他の三人は、崩れはじめたところで棚に背を向けた。

消えたわけではない。あの区画で刷った紙は、いまも一行多い。工場は数え直して、多いまま出荷している。取引先から指摘は来ていない。読んだ人が覚えていないからだと思う。

宮田さんは工場に残った。娘の名前は戻っていない。会うたびに、手順書の一行を先に言う。わたしはその工場の前を二度通って、二度とも呼び鈴を押さなかった。

記録の最後には、いつもと同じ長さの空行を一行入れた。なぜそうするのかは、自分でも説明できない。

駅の北側の券売機に、まだ名前のついていない釦が一つ増えていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「イグチ目」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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