ジェラートの日と、均される区画

ジェラートの日と、均される区画

語現鴇江市ジェラート区画温室

「うちの区画では、ジェラートはみんなで同じだけ分けるものなんです」

新しくできた住宅区の集会所で、真木さんはそう言った。八月二十七日の朝だった。これを書いているのは、その十一日後になる。あのとき聞き返しておけばよかった、といまは思う。聞き返さなかった理由も、いまなら分かる。言い方がふつうすぎたのだ。

その週、鴇江市の東で「ジェラート」という語の使用が急に増えていた。七日間で、ふだんの四倍だった。この語は本来、店の名前や商品の名前と一緒に出る。ところがこの区画は違った。四十二世帯のうち三十九世帯が、店の名前をひとつも付けずにその語を使っていた。数え直したが、比は変わらなかった。

聞き取りには三日かかった。区画の住民は、去年の秋に「言葉の取り決め」を作っていた。新しい街に集まった人どうしで、意味の食い違いをなくすための紙だ。八十七の語が並んでいた。その二十六番目にジェラートがあった。意味の欄には、こう書いてあった。「区画の全員に、同じ量だけ行きわたるもの」

どうしてそうなったのかは分かる。夏の初めに、集会所で冷たいものを配る話が出た。そのときの運用の説明が、そのまま語の意味の欄に写されたのだ。誰も氷菓の作り方を書かなかった。書く必要がなかった。彼らにとってその語は、もう配り方の名前だった。取り決めの紙には、直した跡が一か所もなかった。

六日目の夕方、区画の共同温室で出た。棚にはシソ科の草が並んでいた。多年生草本、つまり何年も枯れずに残る草だ。当番の住民が世話をしていた。園芸品種のものが多く、背の高さはばらばらだった。

それは通路のいちばん奥に立っていた。人の背丈ほどの、白っぽいかたまりだった。表面は、スプーンで何度もならしたあとのように平らだった。近づくと足元が濡れた。溶けているのではない。滴る音が続いていた。二秒に一度だった。一度もずれなかった。わたしはこれを言い表す語を持っていない。管理局の分類のどこにも当てはまらない。とりあえず、ならしびと、と書いた。

そばに真木さんがいた。温室の記録当番だ。わたしが名前を呼ぶと、返事が来た。その声の高さが、隣にいた別の住民の声とまったく同じだった。速さも同じだった。目をつぶると、どちらが話しているのか分からなかった。

区画の栄養士の三沢さんが割って入った。ジェラートは乳脂肪の少ない氷菓で、空気の混ぜ方が違うだけだと、正しい説明を始めた。ならしびとは彼女のほうを向きもしなかった。正しい意味は、この区画では一度も共有されていない。共有されていない像は、力を持たない。三沢さんの声は温室にしばらく残り、それから短くなった。

翌朝、真木さんの顔を、家族が見分けられなくなっていた。目や口が消えたわけではない。造作のひとつひとつが、区画の平均に寄っていた。四十二世帯ぶんの平均だ。夫は写真を机に並べて、どれが妻か指させなかった。何度も並べ替えていた。

均されたのは声と顔だけではなかった。知っていた語も減っていた。彼女は温室の草の名前を言えなくなった。区画の全員が言える語だけが残ったのだ。その数を数えると、五十一だった。夫の名前は、その五十一に入っていなかった。

わたしは退治の道具を持っていない。持っていたこともない。することは決まっている。聞いて、書くことだ。

温室に戻って、いつもの質問をした。何と呼ばれたいですか、と。返ってきたのは、わたしの声だった。高さも速さも、わたしのものだった。そして同じ質問だった。何と呼ばれたいですか。手帳を開いた。前の晩に書いた行の字が、当番表の字と同じ形になっていた。わたしの字ではなかった。そこで温室を出た。走ってはいない。走れば区画の全員と同じ速さになる気がした。

九月に入って、区画から人が出ていった。十日で十一世帯が転出した。取り決めの紙は集会所の壁から外された。二十六番目の語が読まれなくなると、温室のかたまりは薄くなった。輪郭のほうが先に消えて、濡れた音だけが残った。それも三日で聞こえなくなった。

消えたわけではない。温室の草は、いまも背丈がそろっている。当番が切りそろえたのではない。高さは十七センチで、一本の例外もない。手を入れなければ、そろわないはずの草だ。

真木さんは戻らない。顔は平均のままだ。いまも区画に住んでいて、五十一の語で話す。夫は転出しなかった。見分けられないまま、同じ家にいる。わたしはその家の前を二度通って、二度とも呼び鈴を押さなかった。

記録の最後には、いつもと同じ長さの空行を一行入れた。なぜそうするのかは、自分でも説明できない。

帰り道、閉まったままの空き店舗の二階に、灯りが一つ増えていた。数えたのは三度目だ。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「プレクトランサス」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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