世界犬の日と、撫でられない側

世界犬の日と、撫でられない側

語現体鴇江市世界犬の日記録

八月二十六日の夕方、市民ホールの事務室で受理票を切った。届出人は保護施設の職員で、四十代の男性である。受理から決裁までの標準は三日、印は四つ。わたしは灯番号にT-20260826-02と書いた。

ホールでは、その日の午後に犬の催しが開かれていた。会場は四つのゾーンに区切られていた。譲渡相談、しつけ相談、写真、物販である。仕切りは白いパネルで、高さは百八十センチある。人の背より少しだけ高い。譲渡相談のゾーンだけが空いていた。施設は毎年ここに出ている。入場は無料だが、物販の売上から会場費を出す。届出人はそれを興行と呼んだ。事務の言い方である。

彼の届出は書式どおりではなかった。四つの項目に分けて書いてあった。写しを取ったので、そのまま記す。

事象。八月二十四日から、家に犬がいる世帯で、床から四十センチの高さの空気だけが温かい。

再現手順。一、犬のいる部屋で、その犬に向かって、ありがとうと声に出して言う。二、手を下ろし、いつも撫でている高さで止める。三、そのまま十秒待つ。四、手を引く。

期待。何も起こらない。

実際。三の途中で、撫でていない側の手のひらに、犬一頭ぶんの温度が触れる。触れているものは無い。手を引いても温度は残る。犬は、その高さを避けて歩くようになる。

再現率の欄には、十四世帯中十四と書いてあった。彼が自分で回って確かめた数である。彼は保護施設の職員である。この日が何のための日か、正確に知っている。もともとは、施設で順番を待っている犬に目を向けてもらうための日だった。彼は毎年それを説明してきた。だが今年、市内でこの語を使った人の八割は、いま家にいる犬に感謝する意味で使っていた。

正しく知っている者は、違うと言えない。言えばその語がもう一度使われる。使われれば像は濃くなる。彼は説明するのをやめた。やめたので、施設は今年も譲渡相談のゾーンだけが空いたままだった。何も知らない人なら、心霊だ祟りだと騒いだはずである。騒げば誰かが来る。来ても無駄だが、少なくとも誰かが動く。彼だけが、誰も動かせなかった。

わたしは、届出の理由を尋ねた。彼は、止めてほしいわけではない、と言った。ただ記録に残しておきたい、と。わたしは、それは第四号様式ではなく第七号様式の扱いになる、と答えた。彼はしばらく黙ってから、はい、と言った。噛み合っていないことは、二人とも分かっていた。分かっていても様式は変わらない。

翌朝、早瀬の集計が届いた。この語の市内使用が、二十一日からの六日間で例年の九倍を超えていた。ただし使用の八割で、話し手は待っている犬の話をしていなかった。ずれた分だけ、像はずれた側で揃う。揃ったのは、感謝された側ではなく、感謝されなかった側の輪郭である。初冬までに言及が減れば温度は下がる、と予測が付いていた。予測であって、確認ではない。グラフの下の端には、いつもの小さな揺れが乗っていた。測定器の癖だと早瀬は言う。三年前から同じ振れ幅である。

昼過ぎに、わたしは物販ゾーンの裏に立った。規定では、聴取は動線を塞がずに行う。姿は無い。感謝の言葉が言われた場所にだけ、それは居る。床から四十センチ、撫でる高さである。触れるほうの手は冷えていく。触れられている側の温度だけが上がる。部屋の温度計は動かない。容器の中身が増えているのに、容器の重さが変わらないのと同じである。

何と呼ばれたいですか、と尋ねた。返事はなかった。返事の代わりに、畳んであったケージの中の空気が、四十センチのところだけ温かくなった。わたしは規定どおり、答えを記録しなかった。

夕方、白河が測りに来た。温度計を三台使い、高さを一センチずつ変えて記録した。三十九センチと四十一センチでは変化が出ない。四十センチだけが上がる。目盛りの一段ぶんだけを読む計器を、わざわざ三台並べているようなものだった。彼は測り直し、それから測るのをやめた。数値が合わないのではなく、数値の置き場所が無い、とわたしは書いた。

止める方法は無い。方法という語が、これには当てはまらない。できるのは三つである。温度が上がる高さを測ること。再現した世帯を全部記録すること。そして、正しく知っている人のそばに居ること。三つとも、終わらせるための行為ではない。

届出人は最後に、施設の犬の名前を挙げようとして、やめた。名前を出せばその語が使われる。彼はそれも知っていた。代わりに、頭数だけを言った。十一頭です。わたしは受理票の備考欄に、十一と書いた。数を書く欄はあるが、待っている、と書く欄は無い。書式は、栓のない漏斗のように、入れたものの一部だけを下へ落とす。

受理から三日、印は四つ、決裁は定刻に下りた。処分は保留、監視は継続、市民への告知はしない。告知すれば人が語る。語れば像が濃くなる。濃くなれば、次に温かくなる部屋が増える。防げないのに広げることはできる、という一点で、局は今日も無力だった。書類は綴じられ、棚の三段目に入った。棚の三段目には、まだ名前のついていない綴りが一つある。今日は一日じゅう曇りだった。いや、夕方の少しのあいだだけ、晴れていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「リヤド・シーズン」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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