二百十日と、数え直される畝
八月二十八日の午後四時。鴇江市の外れ、川向こうの畑地区で、わたしは集荷場の土間に立っている。灯番号は T-20260828-02 として受理する。以下は、見ながら書いている記録である。書きながら見ている、のほうが正しいかもしれないが、そこは後で直す。
集荷場は、もとは別々の二棟だった。北の作業小屋と、南の元の宿である。三十年前に、あいだの壁を抜いて一体に改築した。改築のとき、二階は手を付けなかったので、南側の二階には昔の客室がそのまま残っている。三部屋ある。畳は上げてあり、いまは空の出荷箱が積んである。
集荷場の正面には、細長い空き地が広がっている。もとは田だった土地で、いまは休耕地である。地区の人はここを畑と呼ばない。空き地と呼ぶ。呼び方が決まっているというより、そう呼ぶ以外の呼び方を誰も持っていない、という感じの決まり方をしている。
この一週間、この地区で「二百十日」という語の使用が急に増えている。ふだんの七倍だと早瀬さんの表が言っている。ふつうこの語は、立春から数えて二百十日目のこと、つまり九月一日ごろの雑節を指す。台風に気をつける日として、農家が古くから警戒してきた日である。ところがここでは、意味がひとつずれている。
「二百十日っちゅうのはね」と、集荷場の当番をしている杉之内さんが言う。七十代の、背の低い人である。「その畑が、次に数え直される日のことですよ」
「数え直される、というのは」
「その日が来るまでに採ったぶんは、勘定に入らんということです。入らんというか、入れんでいいということです。楽でしょう」
「楽ですね」とわたしは言う。
「楽ですよ」と杉之内さんが言う。
「楽です」と、あとから土間へ入ってきた出荷組合の若い人が言う。
わたしは聞き返さない。言い方があまりにふつうだからだ。土間にいる四人が、誰ひとり聞き返さない。
ここで作業の順を書いておく。この地区の農事暦は、苗代づくりから始まって、畝上げ、天候待ち、収穫、出荷、そして休耕で一年が閉じる。順番はどの家でも同じで、時期だけが少しずつ違う。違いは土の乾き方で決まる、と杉之内さんは言った。暦で決まるのではなく、土で決まる。だから暦の日付は目安にすぎない、とも言った。目安にすぎないのに、二百十日という日付だけは、この地区では日付として動かない。
作業名には、それぞれ言い伝えが付いている。畝上げには「畝の突き当たりまでは行くな」というのがある。理由は誰も言えない。言えないのだが、みんな知っている。知っているというのは、この地区では「言えないが守っている」という意味である。
四時四十分。顕が始まる。
始まったと書いたが、これは書き直す。顕は始まらなかった。数が合わなかっただけである。
出荷伝票の控えを見せてもらう。今日の午前中に空き地の向こうの畑から上げた分は、二十六箱と書いてある。土間に積んであるのは二十五箱である。一箱足りない。杉之内さんは足りないと思っていない。
「二十五で合うてます」
「伝票は二十六です」
「そりゃあ、数え直される前の数でしょう」
わたしは畝へ行く。空き地を横切って、川べりの畑に入る。畝は南北に十二本ある。九本目の突き当たりに、それが立っている。
人の形をしたものが一体、腰まで土に埋まっている。顔はない。顔があるべき面が、土の色のまま平らである。片手に、空の出荷箱を持っている。近づくと、箱の中で数を数える音がする。指で数えているような、乾いた音である。数え終わるたびに、その畝の収穫が一箱ぶん減る。減るところは見えない。数えた後に数えると減っている。
これが今回の語現体だ。ひとつだけだ。地区の人はこれを畝人と呼ぶ。呼ぶというより、そう呼ぶ以外の呼び方を誰も持っていない。
日が傾く。わたしは集荷場へ戻る。戻ったと書いたが、順序が違う。戻る前に、二階へ上がっている。
南側の二階の、三つある客室のうち、いちばん奥の部屋で音がしていた。畝で聞いたのと同じ、乾いた、指で数えるような音である。部屋には空の出荷箱が積んであるだけで、ほかには何もない。窓から見えるのは空き地である。
ここで気づいたことを書く。集荷場は二棟を一体に改築した建物である。北の作業小屋と、南の元の宿である。それぞれに帳面があった。北の帳面は箱の数を数え、南の帳面は泊まった人の数を数えていた。改築のとき、壁は抜いたが、帳面は一冊にしなかった。二冊のまま、二階の客室に置いてある。数が合わないのは当たり前だ、と杉之内さんは言った。もともと二つ数えとるんだから、と。
「もともと二つ数えとるんだから」
「もともと二つ数えとるんだから」
三度目は、わたしが言った。
杉之内さんは、この地区でいちばん暦に詳しい人である。雑節も節句も、指を折らずに言える。正しい意味を知っている。二百十日が立春から数えて二百十日目だと知っている。知っているから、地区の寄り合いでいちばん最初に、その語を口にしてしまう。正しく知っている人が、いちばん早く数え直されている。暦を知らない出荷組合の若い人は、まだ伝票の数を気にしている。
「何と呼ばれたいですか」と、わたしは畝人に尋ねた。
尋ねたと書いたが、これも書き直す。尋ねたのは畝へ行ったときで、二階へ上がる前である。箱の中の音が一度止まって、また始まった。返事とは呼べない。わたしは記録しない。
わたしにできるのは、箱を数えることだけだ。今日は二十五ある。伝票より一箱少ない。少ない一箱がどこへ行ったのかは分からない。空の箱を持って畝に立っているものが、それを持っているとは限らない。持っているように見えるだけかもしれない。かもしれない、と書いておくのは、わたしが見たものを信じていないからではなく、わたしが数えた回数を信じていないからである。
第四課の手順どおり、わたしは畝を潰すことを頼まない。潰しても薄れないからだ。局にできるのは、隠すことと、数えることと、最後まで見ていることだけである。代わりに、集荷場の土間に椅子を置いて、明日も夕方の四時から座る。わたしが担当した語現体は、ほかの聞き手のときより薄れるのが早い。理由は書かない。
五時。杉之内さんが土間の電灯をつける。空き地が暗くなる。畝は見えない。
「楽でしょう」と杉之内さんが言う。
「楽ですね」とわたしは答える。
受理の日付を、一日ずらして書きそうになった。直した。直したが、直す前に何と書いていたかは、もう覚えていない。
今日はここまで書く。書きながら見ている、のほうが正しい。
空き地の向こう、川べりの九本目の突き当たりで、誰も見ていないのに、灯りが一つ増えている。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「ヴィクトリア・ユングフラウ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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