昔は良かったと、戻される目盛り
八月二十九日の午前十時。鴇江市の川沿いにある動物病院の待合に、わたしは座っている。灯番号は T-20260829-01 として受理する。以下は見たままの記録である。
この病院は、北にあった元の医院と、南にあった元の写真館を合体させた建物である。あいだの壁を抜いたのは二十年前だと聞いた。二階は手を付けていない。南側の二階には、写真館の頃の暗室がそのまま残っている。待合の掲示板には地区の人口が貼ってある。四千二百人ほどと書いてある。紙は日に焼けている。裏口を出た道は、国立公園の入口の看板まで続いている。
この一週間、この地区で「昔は良かった」という語の使用が急に増えている。ふだんの七倍だと早瀬さんの表が言っている。ふつうこの語は、過ぎた時代のほうが良かった、という評価を表す。ここでは意味がひとつずれている。
受付の女性が説明してくれた。昔は良かった、というのは、前に測った数字のほうが正しい数字だという意味です、と言う。今日の数字は勘定に入れなくていいということです。楽でしょう。楽ですね、とわたしは言う。楽ですよ、と受付の女性が言う。
待合には飼い主が三人いた。三人とも聞き返さない。わたしも聞き返さない。言い方があまりに普通だからである。
三人のうち一人は、猫を布の袋に入れて抱えていた。袋の口は開けてある。猫は出てこない。出てこないまま、順番を待っている。
十時四十分。顕が始まる。
診察台の上に、板が一枚立っている。体重計の目盛り板を人の背丈まで引き伸ばしたような形である。厚みはほとんどない。板の片面に、数字が薄く浮いている。前回の数字だと受付の女性が言った。ちょうど一体である。
近づくと、目盛りが一つずつ戻る音がする。乾いた音である。音が止むと、カルテの今日の欄が前回と同じ数字になっている。戻る瞬間は見えない。目を離した時間があると、戻っている。
板は診察台から下りない。台の外へ出そうとしても、出た先が見えない。押しても手応えがない。手応えがないだけで、板はそこにある。
板の前に立つと、自分の影が板に映らない。台の上には影が落ちている。板の分だけが抜けている。抜けていることに、院長も助手も触れない。
戻る数字は体重だけではない。年齢の欄も戻る。三歳と書いたものが二歳になっている。飼い主はそれを見ても直さない。直さないのは面倒だからではない。前の数字が正しい数字だからである。
院長は六十代の人である。彼は「昔は良かった」を本来の意味で使う。前の時代のほうが良かった、という意味である。彼が書いた数字だけが戻る。助手の書いた数字は戻らない。飼い主が自分で書いた数字も戻らない。誤解を持っていない人の数字だけが、誤解の通りに扱われる。院長はそれを知っている。知っているが、どうにもならない。
助手の若い人に聞いた。助手は、前の数字が正しいなら今日測る意味は何ですかと聞いた。わたしは、意味はありますと答えた。助手は、そうですかと言った。それ以上は聞かなかった。
わたしは院長に、この板を何と呼んでいるかと尋ねた。院長は答えなかった。代わりに聴診器を外して机に置いた。置いた音がした。
飼い主への説明として、わたしは次のことを話した。今日の数字は、数字で書かない。言葉で書く。先週より軽い、と書く。重い、と書く。数字でなければ目盛りは戻らない。戻る先がないからである。これは治す方法ではない。数字が戻るまでの時間を延ばすだけである。
この地区の外では、この意味は通じない。隣の町の病院では、昔は良かったは昔は良かったのままである。像は地区の境で止まっている。止まっている理由は分からない。境の内側にいる人だけが、同じ像を持っている。
三人のうち二人はうなずいた。一人は、それでは記録にならないと言った。そのとおりである。わたしはそのとおりですと言った。
記録にならないという言い方は正しい。数字でない記録は、あとで比べられない。比べられない記録は、次の誤解を止める材料にならない。それでも今日はこれしかない。局にできるのは、時間を延ばすことと、書き残すことと、終わるところまで見ていることだけである。
帰る前に、板に向かって、何と呼ばれたいですかと尋ねた。板は答えた。わたしは答えを書かなかった。
待合に戻ると、掲示板の人口の紙が一枚増えていた。数字は同じである。紙だけが二枚になっている。受付の女性は、前からそうだと言った。
この病院には台帳が二冊ある。体重を書く台帳と、写真の受け渡しを書く台帳である。合体させたときに片方を捨てなかった。数字が二つあるのは、もともと二冊で数えているからだ、と受付の女性は言う。動物と体重の話をしているつもりで、建物の話をしている。
前回の台帳を開くと、戻った数字と同じ数字が書いてあった。それがいつ書かれたのかは分からない。日付の欄は空いている。空いていることを誰も気にしていない。
記録はここまでである。署名の欄は空けたまま提出する。最近はそうしている。理由は書かない。
帰りに、待合の椅子を元の並びに直した。三脚あって、一脚だけ向きが違っていた。直してから出た。
余白。裏の道の街灯は、去年まで六つだった。今朝数えたら七つあった。増えた一つは、誰も点けた覚えがないという。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「リブラジュド」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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