ビールかけを賭けだと思った夜、湖の桟橋で払わさ…

ビールかけを賭けだと思った夜、湖の桟橋で払わされた人

語現鴇江市ビールかけ湖通知

通知が鳴った。雨の夜だった。画面の右上で、灯の形の印が一つ、点いては消えた。午後十時四十一分。件名は短い。『ビールかけ 急増』。それだけだった。

わたしは端末を開いた。鴇江市の中だけで、その語は一時間に四千回を超えていた。祝勝の夜だった。どこかのチームが勝ち、どこかで人が頭からビールをかけ合った。それは知っている。知っている、と書いた。訂正する。わたしは、知っていると思っていた。

検索の並びを見た。一番上は『ビールかけ やり方』。二番目は『ビールかけ 負けたら』。三番目は『ビールかけ 払えない』。四番目は『ビールかけ 降りる方法』。並びが、もう物語っていた。多くの人が、この語を『賭け』と読んでいる。ビールを賭けて勝負をし、負けたほうが払う。かける、の字が違う。でも、字の違いは声にすると消える。

駅前のネットカフェで、高校生の女の子に聞いた。ネオンの看板が雨ににじんでいた。「ビールかけって、負けたほうが全部払うやつでしょ。だから優勝したら、相手から取り立てるの」。わたしは言った。「かけるのは、ビールです。頭から」。彼女は笑った。「なにそれ。もったいない」。

コンビニの前で、傘をさした男の人にも聞いた。「賭けだろ。だから『降りる』って書いとけば、払わなくていいんだよ。みんなそうしてる」。彼の端末の画面には、同じ一行が並んでいた。『ビールかけ、降ります』。知らない人どうしが、同じ言葉で、同じ勝負から降りていた。降りる人が増えるほど、勝負そのものは、はっきりした形になっていった。わたしはそれを、ログの行数で見ていた。一分ごとに、行は増えた。

湊さんは、北の湖でロッジを営んでいる。釣り客を小さな水上飛行機で運ぶ人だ。その夜、彼は祝いの投稿を何十回も書いていた。『ビールかけ最高』『ビールかけ見た』『ビールかけ、来年も』。どれも正しい意味だった。正しい意味だった。正しい意味だった、と三度書いておく。そのことが、あとで効いてくる。

零時を過ぎて、湊さんの端末から匿名の投稿が流れはじめた。本人の書き方ではなかった。『負け』『支払い』『桟橋』。それだけの三語が、十秒おきにくり返された。わたしは車を出した。湖の水上飛行場は、ロッジの裏の桟橋にある。

着いたとき、もう始まっていた。桟橋の先に、背の高い柱が立っていた。琥珀色で、雨に打たれても濡れていなかった。体の中を、細かい泡がのぼりつづけていた。音はしなかった。帳面をめくる、乾いた音だけがした。柱は湊さんに向かって言った。「なにを賭けた」。

湊さんは答えた。「賭けてない。かけるのはビールだ」。柱はもう一度言った。「なにを賭けた」。湊さんはまた、正しく答えた。「かけるのはビールだ。頭から」。三度目。「なにを賭けた」。「かけるのは、ビールだ」。

誤読している人たちは、自分が賭けたと思っている。だから『降りる』と言える。湊さんは、賭けたことを知らない。知らないものからは、降りられない。柱が傾いた。泡が、上から湊さんにかかった。冷たい音がした。彼の髪から、色が抜けた。頬から、くちびるから、指先から。気の抜けたビールのような、薄い黄色の人が、そこに立っていた。

柱が、こちらを向いた。わたしの端末が震えた。通知だった。『参加者 七尾ことは』。わたしは、何も賭けていない。そう言いかけて、やめた。「降ります」とだけ言った。柱は帳面をめくり、何かを書いて、わたしから目をそらした。

わたしは柱に聞いた。「何と呼ばれたいですか」。答えは、ここには書かない。

湊さんのそばに座った。彼は何か言おうとした。口から出たのは、しゅわ、という泡のはじける音だけだった。わたしはそれを聞いた。最後まで聞いた。書き取れる言葉は、一つもなかった。それでも、聞いた時間だけは記録に残した。四十分。雨は弱くならなかった。湊さんは途中で一度だけ、桟橋の先の水上飛行機を指さした。そして、首を横にふった。もう、あれを飛ばすことはできない、という意味だったのだと思う。訂正する。わたしがそう思いたかっただけかもしれない。

二日で、その語は使われなくなった。検索の並びから『負けたら』が消え、『やり方』だけが残った。柱は桟橋から消えた。けれど湖の上には、雨のない夜でも、細かい泡が一列だけのぼっている。湊さんは、いまもロッジにいる。色は戻らない。釣り客に道具を渡すとき、彼の手の中で、泡の音がする。

わたしの通知履歴には、一行だけ消えない行がある。『湊 支払い済み』。消しても、次の通知が来ると、また一行目に戻っている。

今夜は晴れていた。訂正する。今夜は、端末の電源を切ったまま、雨の音を聞いていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ハチェット湖」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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