陶器の日に欠けた器を沈めた人、満水の桟橋で口を…

陶器の日に欠けた器を沈めた人、満水の桟橋で口を塞がれる

語現鴇江市陶器の日満水貯水池

「欠けた器を、沈めに来たんです」

その人は桟橋の端に立って、紙袋を抱えていた。袋の口から、黄色い実がのぞいていた。ブドウほどの大きさの、つやのある実だった。朝の光が実の皮に溜まって、袋の中だけが、夕方の色をしていた。

十月四日。鴇江市の北にある貯水池の管理所は、朝から静かだった。雨は三日降っていない。それなのに、水位の針はゆっくりと右へ動いていた。管理所の主任は、時計と水位計を交互に見た。「満水まで、あと一メートル十」。そう言ったきり、主任は口を閉じた。窓の外、管理所を囲む常緑低木の生け垣が、濃い緑のまま風に揺れていた。

わたしは、桟橋に来る人たちに話を聞いた。十一人。全員が、同じことを言った。三日前の投稿を見た、と。

投稿はこうだった。十月四日は陶器の日。由来は、昔の呼び名の「陶瓷(とうし)」の語呂合わせ——ここまでは、正しい。けれど投稿は、その先を読み替えていた。「とうし」は「十日と四日」。欠けた器を水に沈めておくと、器は「満水」になって、欠けが埋まる、と。十一人とも、満水を「水が器の欠けを覚えて埋めてくれること」だと信じていた。像は、きれいに揃っていた。

早瀬さんは、管理所の机で、満水の正しい意味を言った。「満水は水位の名前です。この貯水池なら、赤い線の高さのこと。器が満ちることじゃない」。数字にすれば怖くない、と信じている人の声だった。でも、その声は、その朝だけ、桟橋まで届かなかった。正しく知っている人ほど、桟橋に近づけなかった。足が、水のほうへ向かなかったのだ——理由は、誰にも言えなかった。

昼前、桟橋の下から、器が上がった。

人の背丈ほどの、大きな器だった。全体に釉(うわぐすり)がかかっていた。釉の色は黄色。桟橋の人が抱えていた、あの黄色い実を潰した色だった。器の中には水が、縁ぎりぎりまで満ちていた。こぼれない。揺れもしない。器は、沈められたものを覚えていた。縁には、十一の欠けの形が、歯型のように、ぐるりと並んでいた。

紙袋の人は、八木さんといった。沈めたのは、縁の欠けた茶碗だった。奥さんが、黄色い実でジャムを煮て、毎朝それをパンに塗るときに使っていた茶碗。奥さんは、もういない。八木さんは、茶碗の欠けだけでも埋めたかった。それだけの、小さな願いだった。

器は、八木さんの前で、ゆっくりと傾いた。

水が、八木さんの口に流れ込んだ。八木さんは飲んでいない。水のほうが、八木さんの欠けを探した。前歯の抜けた隙間。そこへ、水ではなく釉が流れ込み、そのまま固まった。歯の色ではない。黄色い実の色だった。八木さんは、それから口を開けるたびに、口の奥から黄色い光が差す。言葉は、器の内側で響くように、こもって聞こえる。

器は、わたしのほうへも傾いた。わたしの帳面が濡れた。書き損じて消した一行の、消した文字の形に、釉が満ちて固まった。わたしが書かなかった語が、帳面に残った。わたしは、それを読まなかった。読めば、使ってしまう。

「何と呼ばれたいですか」

器は答えなかった。水面が一度、揺れただけだった。わたしは答えを書かなかった。

主任は、放流を決めかねていた。満水の針は、とうに赤い線を越えている。本当なら、サイレンを鳴らして放流する。けれど放流口から出てきたのは、水ではなかった。縁の欠けた茶碗が、石を転がるような音だった。音は、下流のどこにも届かなかった。放流を決めるための数字が、水ではないものを数えていた。主任は、サイレンのボタンに手を置いたまま、夕方まで動けなかった。

わたしは、桟橋の手前に立った。欠けた器を抱えて来る人を、一人ずつ止めた。止められた人は、泣いた。器を返しても、器の欠けは、そのままだった。満水で直った器は、ひとつも無かった。わたしにできたのは、それだけだった。

十月五日。投稿は、「お茶漬けの日」の話題に流れていった。十日も浸けないうちに、人は忘れた。器は、桟橋の下へ沈んだ。水位の針は、ひと晩で元の高さに戻った。管理所の裏手、誰も見ていない常緑低木の陰で、灯りが一つ増えていた。

けれど、貯水池の水面には、晴れた日の午後だけ、黄色い釉の光が一筋、残る。

八木さんは、ジャムの瓶を一つ、管理所の窓辺に置いていった。黄色い実のジャム。彼にはもう、それを塗る器が無い。口を開けると光が差すので、人前では食べない。

記録。T-20261004-01。欠け、十一。満ちたもの、一。直ったもの、無し。

今朝の天気を晴れと書いた。訂正する。桟橋の上だけ、霧だった。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ワンピ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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