登山の日と、登ったことにされた人の白い足
鉛筆の字は、右に大きく傾いていた。鴇江市の西に、標高四百十二メートルの砥鳴山(となきやま)がある。その登山口に、小さな休憩小屋が建っている。机の上には、大学ノートが一冊置いてある。来た人が名前を書く、登山者ノートだ。小屋番の三輪さんは、毎朝そこに一行書く。わたしは夕方に来て、その下に返事を書いた。三日のあいだ、わたしたちはこのノートで話をした。これを書いているいま、三輪さんの字はもう増えない。
〔十月三日、午前五時四十分。三輪〕けさの気温は九度。登山の日なので、ノートを新しくした。ゆうべ電話が来た。行けないから、名前を書いておいてくれ、という頼みだ。毎年のことだ。だから書いた。登ったことにしてやる。それで気がすむなら、それでいい。
〔同日、午後四時十分。わたし〕昼のうちに、登山の日という語の書きこみが急にふえました。多くは、行けないけれど登ったことにする、という言い方です。同じ言い方が、二時間で三千件をこえました。受け付けた番号は、T-20261003-01です。三輪さんに聞きたいことがあります。名前を書いたのは、どなたですか。
〔十月四日、午前五時五十分。三輪〕気温七度。書いたのは知り合いと、孫の真柴だ。真柴は大学の課題で来られない。おれの山だから、おれが書けば登ったことになる。昔からそうだった。この山では昔、褐炭を掘っていた。掘る人も、来られない日は仲間に名前を書かせた。名前さえ上に行けば、休んだことにはならなかったそうだ。
〔同日、午後五時。わたし〕新人の白河さんに調べてもらいました。登山の日は、十と三の語呂合わせの記念日です。名前を書けば登ったことになる決まりは、どこにもありません。白河さんは、それをよく知っています。そのうえで、夕方に一人で山頂まで歩きました。往復で二時間十分。だれにも会わなかったそうです。でも、山頂には陶器のつぼがあり、中に山頂ノートが入っています。そこに、ふもとと同じ名前が並んでいました。鉛筆の字は、まだ湿っていました。白河さんは、何かとすれちがった気配さえ感じなかったと言います。
〔十月五日、午前三時。三輪〕足音で目がさめた。小屋の外の石段だ。かちり、かちり、と焼き物どうしが当たるような音がする。窓からのぞいた。雨がっぱの背中が、一つ上の曲がり角に立っていた。顔は見えない。背中には紙が何枚も貼ってあった。このノートの切れ端だ。名前が書いてある。真柴の名前は、おれの字だった。煙のにおいがした。褐炭を燃やしたときの、甘くて重いにおいだ。
〔同日、午前四時。三輪〕真柴から電話。足が止まらない、と言う。部屋のいすに座っているのに、足だけが段をのぼる形に動く。足の裏が白い、粘土がついている、と言う。この山の上のほうにあった、耐火粘土の色だ。あの層は、おれが子どものころに掘りつくされたはずだ。
〔同日、午前五時。三輪〕気温四度。ノートに、知らない一行がある。おれの字に似ている。のぼった、とだけ。
〔同日、午前六時。三輪〕寒い
〔同日、午後二時。わたし〕小屋に着いたとき、三輪さんは机の前に座っていました。部屋の温度計は二十一度でした。それなのに、三輪さんの息は白かったのです。目は天井よりもずっと上を見ていました。呼んでも返事はありません。靴下を脱がせると、足の指先から足首まで、灰色の粘土におおわれていました。さわると硬く、指で弾くと、素焼きの陶器のようにかちりと鳴りました。その足は、床の上で、ゆっくり段をのぼる形に動きつづけていました。この状態を言い表す語を、わたしは持っていません。真柴さんも、同じ姿で病院に運ばれたと聞きました。
その夜、わたしは石段に座って待った。夜の十時すぎ、雨がっぱの背中が曲がり角に立った。焼き物の音は、近くで聞くと、だれかが歯を鳴らす音にも似ていた。わたしは、どう呼んでほしいかを尋ねた。背中は少し止まってから、低い声で何か答えた。それはここには残さない。小屋にもどってノートを開くと、わたしの字で一行ふえていた。わたしも、登ったことにする。わたしは、そんなことを書いていない。靴のつま先が急に重くなった。見ると、白い粘土が、爪の先ほどついていた。
背中が曲がり角の向こうへ見えなくなるまで、わたしは見ていた。横にいた白河さんには、最初から何も見えていなかった。それでも彼女は、最後まで下を向いていた。
〔十月六日、午後四時。わたし〕三輪さんの記入は、五日の朝の寒いの一語で止まりました。それからは、わたしだけがこのノートに書いています。登山の日という語は、二日でほとんど使われなくなりました。雨がっぱの背中も、もう石段には来ません。けれど、書かれた名前は消えません。けさ、白河さんと山頂のつぼを開けました。知り合いと真柴さんの名前の下に、三輪さんの名前がありました。三輪さんの字でした。三輪さんは、この三日、一度も山に入っていません。
三輪さんと真柴さんは、いまも病院にいる。二人の足は、ベッドの上で段をのぼりつづけている。灰色の粘土は、足首からひざへ、一日に一センチほど上がっている。医師は、削ることもできないと言った。今朝も、三輪さんの息は白かった。そして、わたしの靴のつま先の白い粘土は、洗っても、きのうより少し広がっている。
帰り道、だれもいない谷の向こう側で、灯りが一つふえていた。
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