雇用統計と、働く人の背に数を告げる作業帽
「畝の数と、人の数が合わないんです」電話の向こうの女の人は、まずそう言った。十月二日の午後五時すぎのことだ。鴇江市の北のはずれで、牧野さんという人が小さな農園をやっている。電話はそこからだった。
同じ日の昼、早瀬さんのグラフでは「雇用統計」という語が急に伸びていた。夜に大きな発表がある日で、昼のうちから多くの人がこの語を書きこんでいたという。わたしは受理の欄に、T-20261002-02と書いた。
牧野農園では、九月の終わりに稲を刈り、そのあとの田にえん麦をまく。えん麦はイネ科の草だ。実をとるためではなく、すきこんで土を肥やすために育てる。まいた種子が芽を出すまでの十日ほどは、毎日、雑草を抜いて回るそうだ。その日も六人が六本の畝に分かれて、手で草を抜いていた。
牧野さんによれば、この土地では種まきのあとの最初の草取りを「人別(にんべつ)」と呼んできた。人別とは、人を一人ずつ数えることだ。昔は、この日に畝に立っている者が、その年の働き手として数えられたという。数に入らなかった者は、次の年は呼ばれなかったそうだ。
畑で働いていた若い人たちにも、わたしは話を聞いた。三人とも、雇用統計という語を知っていた。働いてるかどうか、一人ずつ数えに来るんでしょ、と一人が言った。数に入らないと、いないのと同じになるって、ともう一人が言った。だれもそれを疑っていなかった。ネットでも同じ言い方がたくさん流れていた、と三人目が言った。
午後五時、牧野さんは抜いた草のかごを数えた。六人で六本の畝だから、かごは六つのはずだった。けれど、かごは七つあった。七つ目のかごの草は、どれも根まできれいに抜けていた。手を入れると、草は人の肌くらいに温かかったという。
農園の西の端を見ると、畝が一本ふえていた。だれも土を盛っていない場所だった。その七本目の畝に、だれかがかがんで、草を抜いていた。牧野さんが電話をかけたのは、そのときだ。
日がしずむ少し前に、わたしは農園に着いた。七本目の畝の上の人影は、作業帽をかぶっていた。つばの下の顔は、見るたびに変わった。さっきまで畑にいただれかの顔に、少しずつ似ていくのだ。右手には、数を数える小さな道具を持っていた。カチ、と鳴るたびに、畑で働くだれかの背中に指でふれていった。
ふれられた人は、その場で手を止められなくなった。いちばん若い柚木さんは十九歳だった。彼は背中に指を当てられ、「七」と言われたそうだ。それから彼は草を抜きつづけた。指先が緑にそまり、爪の間に土がつまっても、手は止まらなかった。口は、七、七、七と、同じ数だけを言っていた。
あとで聞いたところによれば、ほかの五人も背中にふれられていた。けれど五人は、言われた数を覚えていなかった。日が落ちると、五人の手は自然に止まった。止まらなかったのは柚木さんだけだった。彼は、休憩のときに畝を離れて、あぜに座っていたそうだ。だから人影が来たとき、彼はいったん数から外れていた。あわてて畝に戻ったところで、指が当たったのだという。牧野さんは、一人だけ数え直されたんだと思う、と言った。
早瀬さんは、わたしより先に来ていた。彼は人影の前に立ち、ゆっくり説明した。雇用統計は、全員を数えるものではない。一部の会社や家を選んで調べ、全体を推し量るものだ。だから、一人ずつ数えに来る者などいない。どれも正しかった。けれど人影は、彼のほうを一度も見なかった。彼が柚木さんの腕をつかんでも、柚木さんは彼に気づかなかった。早瀬さんの声だけが、畑の上をすべっていった。
七本目の畝のはしに、わたしは立った。カチ、と音がして、左の肩に指が当たった。冷たくはなかった。湿った土の重さがあった。「は」と、人影は言いかけた。八、と言うつもりだったのだと思う。そこで音がやんだ。なぜやんだのかは、わからない。
何と呼ばれたいですか、とわたしは聞いた。人影は少しのあいだ指を止めて、答えた。その答えは、ここには書かない。それから人影は、また畝にかがんだ。日がしずみきるまで、わたしはその横で、草の根が切れる音を聞いていた。
発表の夜が明けて二日もすると、雇用統計という語はあまり書かれなくなった。早瀬さんのグラフでは、線が下がったあとも、小さなゆれが消えなかったそうだ。人影は、いつのまにか見えなくなった。最後に見たとき、つばの下にあったのは柚木さんの顔だった。けれど畝は残った。牧野さんがくわでならしても、翌朝にはまた土が盛り上がっていた。その畝にまいたえん麦は、一本も芽を出さなかった。
柚木さんは病院に運ばれた。ベッドの上でも、彼の両手は草を抜く形で動いている。手のひらの皮はすりきれて、白くなった。家族が名前を呼んでも、彼は「七」としか答えない。わたしの記録帳には、わたしが書いていない線が一本引かれていた。正の字の、最初の一画だった。左の肩についた緑のしみは、洗っても落ちない。
その日の昼の空を、わたしは晴れと書いていた。正しくは、薄く曇っていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「カラスムギ属」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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