豆腐の日と、接眼レンズの中の白い四角
「腐ってなんか、いないんですよ。豆腐の腐は、やわらかいという意味なんです」柏木さんはそう言って、紙コップのコーヒーを両手でつつんだ。夜明け前の駅ビルの一階。ファーストフードの店には、わたしたちのほかにだれもいなかった。窓の外では、始発を待つ人が二人、白い息をはいていた。
十月二日、午前三時四十分。わたしは、この店の前の公衆電話から呼ばれた。かけてきたのは鴇江市の天文同好会で、会長が柏木さんだった。鴇江駅は三つの路線が交わる乗換駅で、駅ビルは五階建てだ。同好会は月に一度、その屋上を借りて星を見ている。
午前三時五十分。記録の番号は T-20261002-01。日付が変わったころから、市内の書き込みで「豆腐の日」という語が急にふえていた。十月二日を「とう・ふ」と読む記念日だ。そこに、同じ一文がくり返しついていた。豆腐って、豆を腐らせて作るんだって。
午前四時。気温は十三度。「最初にお話ししておきます。わたしには、何も見えなかったんです」と柏木さんは言った。「だから、見えた人たちが言ったことしか、お伝えできません」わたしは「はい」とだけ答えて、ノートを開いた。
午前四時五分。柏木さんは話しはじめた。「屋上に上がったのは、夜中の一時すぎでした。気温は十四度。シーイングは五段階の三で、星のまたたきは少し強めでした。昴を見るつもりで、望遠鏡を東に向けたんです。最初にのぞいたのは久住くんでした。大学生で、いちばん目のいい子です。日付が変わってすぐ、だれかがスマホを見て言いました。今日は豆腐の日だって。豆腐って、豆を腐らせて作るんだってさ。みんな笑いました。だから白くてぶよぶよなんだ、ちょっとにおうもんね、って。わたしは、ちがうのよ、と言いました。腐はやわらかいという意味で、何も腐らせてはいないのよって。みんな、へえ、さすが会長、と言って、それで終わりました。二時半ごろです。久住くんが、星の手前に何かある、と言いました。白い四角いものが浮いている。表面にこまかい穴があいていて、そこから湯気のようなものが出ている。ほかの子も順番にのぞいて、みんな同じものを見ました。白くて、ぬれていて、かすかにすっぱいにおいがする、と。レンズから、においなんてするはずがないのに。わたしも、のぞきました。昴の青い星が、たくさん見えました。それだけでした。カメラでも撮りました。写真にも、星しか写っていませんでした」
午前四時二十分。「それで、久住さんは」とわたしはたずねた。柏木さんはしばらく黙った。それから、また話しはじめた。「三時前です。久住くんが、ずっとのぞいていたんです。白いのがこっちに来る、少しずつ大きくなる、と言って。ほかの子は気味悪がって離れました。久住くんだけが、目を離さなかった。そのうち、つめたい、と言いました。右目がつめたいって。顔を上げた久住くんの右目は、まっ白だったそうです。黒目も白目もなくて、四角い、やわらかそうな白だったって。わたしは、見ていません。わたしには、いつもの久住くんの顔に見えたんです」
午前四時三十分。柏木さんは「それだけです」と言って、コーヒーを飲んだ。もう、さめていた。
午前四時四十分。気温は十二度。わたしは柏木さんと屋上に上がった。望遠鏡は、昴を追って南を向いていた。久住さんは、手すりのそばのベンチに座っていた。わたしは彼の顔を見た。右のまぶたの下に、白い四角があった。豆腐をひとかけ、目の穴にそっとはめたような形だった。ふちから水がにじんで、頬をつたっていた。発酵した豆のような、すっぱいにおいがした。
「見えますか」とわたしはきいた。「左は見えます」と久住さんは言った。「右は、白いだけです。白い中に穴がいっぱいあいてて、その穴の一つ一つに星が入ってるんです」
午前四時四十五分。シーイングは四。東の空が、少しずつ明るくなっていた。わたしは接眼レンズをのぞいた。昴のすぐ手前に、それはいた。白く、四角く、ひと抱えほどの大きさ。表面の穴から、湯気がゆっくりのぼっていた。穴の並びが、昴の星の並びと同じだった。そして、わたしの右目のふちが、ひやりとつめたくなった。
わたしはレンズから目を離さずに、たずねた。「あなたは、何と呼ばれたいですか」白いものの表面が、ふるりとゆれた。答えはなかった。かわりに、手もとのノートが重くなった。見ると、さっき書いた文字が水を吸って、白くふやけていた。腐という字だけが、四角くくずれていた。記録の欄には、書きこみの中で使われていた呼び方を借りて、腐り豆とだけ書いた。
午前五時。柏木さんが、となりで言った。「何か見えるの。わたしには、昴しか見えないのよ」その声はふるえていた。正しく知っている人には、白いものは見えない。見えないから、止めることも、遠ざけることもできない。柏木さんは夜のあいだずっと、久住さんのとなりで、星だけを見ていたのだ。
午前五時二十分。始発が出た。ホームに人がふえると、書き込みの中身も変わった。豆腐の日の話は、朝ごはんの話になった。冷ややっこ、みそ汁、湯豆腐。腐らせて作る、という一文は、もうほとんど見かけなかった。レンズの中の白いものは、朝の光に溶けるように薄くなった。わたしは最後まで見ていた。消えたあと、望遠鏡の真下の床に、四角くぬれたあとが一つ残っていた。
久住さんの右目は、もとに戻らなかった。病院では、どこにも異常はないと言われた。それでも彼の右目には、今も白い四角がはまっている。昼でも夜でも、その中で星が光っていると、彼は言う。ときどき、ふちから水がにじむ。そのたびに、すっぱいにおいがする。
写真は、全部で四十二枚あった。どの一枚にも、星しか写っていなかった。
屋上から見下ろした末広商店街のアーケードの奥、だれも通らない路地で、街灯が一つだけ、きのうまではなかった場所にともっていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「カシミア・ゲート駅」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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