引き分けと、海の底へ半分持っていかれた声

引き分けと、海の底へ半分持っていかれた声

語現鴇江市引き分け海底観測

「こちら港の観測室。海底局、聞こえますか」南條さんが、マイクに向かって言った。となりで宮下さんがストップウォッチを押した。「一、二、三……」十一秒たって、スピーカーがざらりと鳴った。海の底の機械が、いつもの合図を返してきた。

鴇江港の沖、水深四百十メートルの海底に、小さな観測局が沈んでいる。人はいない。カメラと水中マイクと、灯りがあるだけだ。地上とのやりとりは、音を使う。だから返事はいつも遅れて届く。観測室の人たちは、その遅れを毎回数える。数えないと落ち着かないのだと、宮下さんは笑った。

わたしが観測室に着いたのは、十月一日の夜十時すぎだった。記録の番号は、T-20261001-02。市内の書き込みで、ある語が急にふえていた。「引き分け」。夜の試合が延長十二回までもつれて、勝負がつかなかったのだ。

「惜しかったねえ」と宮下さんが言った。「でも、負けなかったんだから、よかったじゃない」「そうそう、よかったよかった」と南條さんがうなずいた。「引き分けは半分こだもんね。両方から引っぱって、まん中で分ける。勝ちを半分ずつ持って帰るんだよ」

市内の書き込みを見せてもらうと、同じ言い方がいくつも並んでいた。引き分けは半分こ。両方から引っぱって、ちょうど半分。子どもにそう説明した、という親の書き込みがとくに多かった。わかりやすい絵だった。だから、みんなが同じ絵を思いうかべていた。

宮下さんだけが首をかしげた。「わたしね、少年野球の審判を長くやってたの。引き分けって、勝負がつかないっていうだけよ。何も分けたりしないの」「さすが宮下さん。よく知ってるなあ」と南條さんが言った。「本当にね。教えてもらえてよかった」と、もう一人の夜勤の人も言った。

夜十一時すぎ、海底のカメラに変化があった。画像は、十一秒遅れの静止画で一枚ずつ届く。一枚目には、いつもの砂地と、灯りに寄ってくる深い海の鮫が写っていた。肝油をたくわえた体で、暗い水にふわりと浮いている。二枚目で、鮫はいなくなっていた。三枚目には、灰色の長いものが写っていた。

それは綱に似ていた。画面の左から右へ、切れめなくのびている。まん中だけが太くふくらみ、そこに下顎のような歯が並んでいた。のこぎりの刃のように細かく、下を向いていた。水中マイクが、ぎし、ぎし、と音を拾った。綱を両側から引きあう音だった。

「何だろうね、これ」「ケーブルかなあ。明日、業者さんに見てもらおうね」だれも怖がらなかった。南條さんがマイクを取った。「海底局、映像を確認。もう一度送ってください」宮下さんが数えた。十一秒。返ってきたのは合図ではなかった。南條さんの声だった。「……もう一度送ってください」前の半分が、なかった。

部屋に、魚の肝油のような重いにおいがした。南條さんの胸の前で、空気が一本の線になって、ぴんと張っていた。片方の端は窓の外、海のほうへのびていた。もう片方は、テレビの画面へ。消し忘れた試合の得点板へ、のびていた。

南條さんは何か言おうとした。口は最後まで動いた。でも、部屋に聞こえたのは「ちょっと、これ」までだった。残りは十一秒おくれて、海の底のスピーカーから返ってきた。南條さんの言葉は、まん中で二つに分けられていた。

「南條さん、疲れてるのよ。お茶いれるね」宮下さんがやさしく言って、南條さんの肩に手をのばした。その手は、張った線を素通りした。宮下さんには、何も見えていなかった。引き分けは何も分けないと、正しく知っているからだ。正しい人の手は、綱にふれることさえできなかった。

わたしはマイクの前に座った。話しかけ続けるのが、わたしの仕事だ。「聞こえますか。あなたは、何と呼ばれたいですか」宮下さんが数えた。十一秒、十二秒、十三秒。答えは来なかった。かわりに、わたしの声の後ろ半分だけが返ってきた。「……呼ばれたいですか」

そのとき、わたしの襟が、左右から同時に引かれた。体温より少し冷たい、湿った力だった。のどの奥で、言いかけた言葉が二つにちぎれそうになった。わたしは話すのをやめなかった。ここにいます。聞いています。記録します。同じことを何度も言った。そのたびに、返事の遅れが一秒ずつのびた。

部屋のすみの椅子に、老松さんが座っていた。いつ来たのか、わたしは知らない。夜勤の人が「よかったですね、引き分けで」と声をかけても、老松さんは何も言わなかった。ただ、海底の画面を見ていた。

夜中の一時をすぎると、書き込みは減った。試合の話をする人は、もういなかった。襟を引く力も、いつのまにか消えていた。綱は画面の中で少しずつ細くなった。宮下さんたちは目をそらしたが、わたしは最後まで見ていた。綱は消えた。でも水中マイクは今も、ときどき、ぎしりと鳴る。

南條さんは、朝になっても半分のままだった。椅子に座って、口を動かす。部屋に聞こえるのは、いつも文の前半だけだ。「おはよう、きょうの」で止まる。「ありがとう、それは」で止まる。後ろ半分は十一秒おくれて、海の底で鳴っている。海底のカメラには、ときどき紺の作業着の背中が写るようになった。南條さんと同じ色だ。

夜勤の人たちは、みんなやさしかった。「よかったですね、南條さん。半分はちゃんと残って」「そうよ、負けじゃないもの。引き分けだもの」「よかった、本当によかった」交代で来る人も、同じことを言った。南條さんはそのたびに、うれしそうに口を動かした。お礼の後ろ半分は、だれにも聞こえなかった。

わたしの記録は短かった。引き分け。港。一名。半分。それ以上は書けなかった。帰りぎわ、老松さんの前を通った。老松さんは、やはり何も言わなかった。わたしも、何も言わなかった。

防波堤の先の、もう使われていない灯台の足もとに、見なれない明かりがぽつんと一つふえていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ヨロイザメ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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