エスカレーターは四階へ着かない

エスカレーターは四階へ着かない

語現鴇江市エスカレーター言い伝え

「段は数えるな。数えると、段に数えられるよ」

管理組合の当番だという八十過ぎの女性は、受付の机ごしにそう言った。鴇江駅前の古い商店ビルの一階。三階建てで、真ん中にエスカレーターが一本だけ通っている。

わたしは手帳を開いた。「それは、昔からの言い伝えですか」と聞くと、女性は首をかしげた。「いつからか知らないよ。でも、ここの人はみんな守ってる。理由は誰も知らないけどね」

この秋、このビルでは同じ話を何人もがしていた。エスカレーターは乗ってさえいれば、勝手に上へ連れていってくれる。だから降りるときも、何もしなくていい。そう思っている人が増えていた。

靴屋の主人は、その考えを笑っていた。「ばかな。降り口で足を出さないと、くしの歯に靴をはさまれるだけだ」。この人は仕組みを正しく知っていた。わたしは聞き取りを終えて、その名前を手帳に書いた。

三階に上がると、乾いた秋の風が窓から入ってきた。乾燥した空気のせいか、手すりの黒いゴムがきしんで鳴いていた。階段のわきに、年寄りたちが集まる小さな休憩所がある。その壁に、古い紙が貼ってあった。

紙には手書きで、こう書かれていた。「四つ目の段には乗るな。乗ったら、上に着くまで降りられない」。三階建てのビルに、四つ目の段などあるはずがない。

「あれは、ここの決まりごとだよ」と、お茶を飲んでいた老人が言った。「沙漠の木は百年かけて根を下に伸ばす、と聞いた。上ばかり見る者には根がない。だから上ばかり見るな、という意味さ」。老人は、意味を自分で作っておいて、うれしそうにうなずいた。

その夜の閉館の少し前、靴屋の主人がエスカレーターに乗った。店じまいの前に三階の倉庫へ行くのだと言った。わたしは一階に残って、帰りを待った。

主人は一階の乗り口で、なぜか段を一つ数えるように足元を見た。わたしは気にしなかった。その癖は、仕組みを知っている人のものだったからだ。降りる場所を何度も確かめる。それが主人のやり方だった。

二階を過ぎた。三階の降り口が見えた。主人は、降りなかった。

「足を出せ」とわたしは叫んだ。主人はこちらを見下ろして、首を横に振った。顔が真っ青だった。「出せない。降りる場所が、もうない」

三階の床は、主人の足元で終わっていた。けれど段はまだ続いていた。天井に向かって、一枚ずつ、静かに。主人の背中がじりじりと上がっていく。仕組みを知っている人は、降りる一歩の大切さを知っている。その一歩を踏む場所がなければ、ただ立っているしかない。

わたしは手帳を握りしめて、階段を駆け上がった。三階に着くと、床の先にいつもと同じエスカレーターの乗り口があった。その上に、手すりがもう一本伸びていた。ビルの図面にない、四階へ向かう黒い手すりだった。

手すりの上を、主人の手が滑っていく。わたしも思わず手すりに指をのせた。ゴムが生き物のように温かかった。そのとき、わたしの手帳の文字が勝手にゆっくりと動いて、「上へ」と書き換わった。

わたしは手を離した。指先に、湿った熱が残っていた。顔を上げると、天井の暗がりに主人の靴の裏が一度だけ見えて、それきり見えなくなった。

放送もブザーも鳴らなかった。ただ、エスカレーターが何も乗せないまま、いつもの速さで上がり続けていた。

わたしはその場に座りこんで、ことばを探した。「間に合わなかった」と書きかけて、ペンを止めた。看取ることしかできなかった。それも、最後まで声が届いただけだった。天井の暗がりから、冷たく乾いた風が一度だけ降りてきて、靴屋のにおいがした。革と、古い糊のにおいだった。

三階の窓の外では、屋上の庭の紅葉が風に揺れていた。赤い葉が一枚、窓ガラスにはりついた。葉の裏にも、ごく薄い黒い線が走っていて、それが手すりと同じ向きに伸びていた。

翌朝、靴屋は閉まったままだった。受付の女性は、手帳に何も書いていないわたしに、同じ言葉を言った。「段は数えるな。数えると、段に数えられるよ」。昨日とほんの少し違う言い方だった。「着いたと思うまで降りるな」と、そこに続けた。

それから一週間、誰もあの段のことを口にしなくなった。話されなくなった段は、少しずつ薄くなっていく。けれど消えはしない。屋上の紅葉が一枚ずつ散るたびに、四階の手すりだけが、うっすらと長く残っていた。長寿の木のように、ゆっくりと、根のように下へ深く。

靴屋の主人は戻ってこない。主人の靴の片方だけが、三階の降り口の端に、いつまでもそろえて置かれている。

帰り際、受付の女性に「何と呼ばれたいですか」と聞いた。答えは、手帳には残さなかった。

帰り道、駅前の路地に誰も見ていない灯りが、また一つ増えていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「コトカケヤナギ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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