海外旅行の日、帰りの欄だけが白いしおり
「今年のしおりは、行きだけで二十ページもあるのよ」。松代さんが、折りたたんだ紙の束を机に置く。公民館の和室。十月十九日の朝十時。わたしは受付の紙に、T-20261019-01と書く。
机のまわりに七人いる。旅行サークルの人たちだ。湯のみが並び、栗の和菓子が回ってくる。「十と十九で、遠くへ行く、でしょう。だから今日は、遠くへ行く日」「いいわねえ。パスポートがなくても、遠くは遠く」「そうそう。近所のバスでも、乗ったらもう旅行よ」。
みんな笑っている。誰の声も、やさしい。わたしは用紙に書く。この言葉は、いま一つの像に寄っている。
「帰りは、どうするんですか」とわたしは聞く。「帰り?」と松代さんは首をかしげる。「今日は、行くことが大事な日だもの。帰りは、あとから考えればいいのよ」。「そうよ、遠くへ行く日なんだから」。七人が、そろってうなずく。
隅にいた堀さんが、湯のみを置く。旅行会社の添乗員を四十年やった人だ。「待ってください。語呂は、遠くへ行く、です。行ったきり、とは言っていません。団体旅行は、帰りの切符を先に買うのが決まりです」。堀さんは、この日の由来も、手順も、誰より正しく知っている。
でも、堀さんが言うたびに、その声は小さくなる。七人は笑顔のまま聞いている。聞こえていないのではない。聞いたそばから、行きの話に戻ってしまうのだ。堀さんの湯のみからは、もう湯気が上がっていない。
この日の同行記録は、松代さんのしおりの様式で残す。
【アクセス】集合は公民館前のバス停です。第七循環の十一時十二分発が、いちばんおすすめです。屋根があり、ベンチは三人がけ。窓側の席から埋まります。
【見どころ】車窓から、川沿いの倉庫と、色の落ちた商店街が見えます。窓を少し開けると、栗を焼く匂いが入ってきます。写真は進行方向だけ撮れます。後ろ向きはおすすめしません。
【所要時間】行きは二十三分です。帰りの欄は、空白です。松代さんが鉛筆で「すぐ」と書き足しました。
【注意】終点の一つ前で、全員が降りた。
標識の下に、背の高い人が立っている。制帽、旅行かばん、小さな旗。顔のところに、地図の折り目のような白い線が走っている。排気がぬるい。革かばんと、古い紙の匂いがする。
「本日はご乗車ありがとうございます。行きは、たいへん快適でございます。どうぞお気をつけて、いってらっしゃいませ」。声はとても丁寧だ。「お帰りは」と言ったところで、口が閉じる。喉は動くのに、音が出ない。
松代さんの夫の健一さんが、笑いながら標識のほうへ歩いていく。「先に行って、場所を見てくるよ」。靴音が三つ鳴る。四つ目が鳴らない。足跡が、濡れたかたちのまま途中で切れている。道の上に、靴だけが揃えて置いてある。中の靴下は、まだ温かい。
「あなた?」と松代さんが言う。笑顔のまま、声だけが上ずる。「遠くへ行く日だもの。いいのよ。いいのよね」。誰も悪くない。誰も止めない。止める言葉が、みんなの中から抜けている。
堀さんが前に出る。「帰りの切符です。往復で買ってあります」。片道案内人は、半券をていねいに受け取る。そして帰りの側だけを、はさみのように指で切り取る。堀さんの手には、行きの半分だけが残る。「正しい」と堀さんは言う。「わたしは、正しいのに」。
案内人が、わたしのほうを向く。「七尾様、お帰りの座席は、すでにございません」。わたしは記録帳を見る。帰着と書いた欄が、見る間に白くなる。耳のうしろで、紙のこすれる音がする。わたしは聞く。「何と呼ばれたいですか」。案内人は答えない。指の先で、わたしの帰着の欄を、一度だけ叩く。
わたしはペンを持ち直し、空欄に大きく「帰り」と書く。書いたそばから、字の端が薄くなる。もう一度なぞる。薄くなる。なぞる。その繰り返しで、字は何とか残る。
「みなさんも、書いてください」とわたしは言う。しおりの帰りの頁に、自分の字で、自分の手で。六人が鉛筆を握る。松代さんは、涙をこぼしながら「帰り」と書く。字はにじむが、残る。
堀さんの鉛筆だけが、紙の上で滑る。書くそばから、字が白くなる。「どうして」と堀さんは言う。この日の意味を、いちばん正しく知っている人の字が、いちばん残らない。案内人は、堀さんに旗を向ける。「行きは、快適でございます」。堀さんは、帰りの半券を握ったまま、終点の先へ歩いていく。振り向かない。
午後四時。帰りのバスの行先表示は、白かった。六人とわたしが乗り込むと、窓の外で案内人が薄くなる。標識の下には、小旗の棒が一本だけ残った。
松代さんは、健一さんの靴を胸に抱いている。帰りの欄の字は、夕方までしかもたない。それまでに、全員を家へ送り届ける。それがわたしにできる、せいぜいのことだ。
夕方は晴れていた。いや、薄曇りだった。公民館の駐輪場の隅で、誰のものでもない自転車のベルが、まだ名前のないまま、一度だけ鳴った。
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