当選確実の席は、数え終わる前に埋まる
「ただいま、第三公民館から中継です」。スピーカーが鳴る。夜の八時。鴇江市の町内会で、役員選びの開票が始まっている。わたしは受付の隅で、記録の用紙を広げる。
長机が三つ並ぶ。票を読む人、数える人、板に書く人。その上の天井から、放送係の声が降ってくる。「実況席の田端です。いま一票ずつ開いています。まだ何も決まっていません」。
会場には四十人ほどいる。みんな、板の数字ではなくスピーカーを見上げている。声が先に結果を教えてくれると思っているのだ。
九時すぎ。「繰り返します。会計の石野さん、当選確実です」。ぱち、と拍手が起きる。石野さんは立ち上がって、照れたように頭を下げる。
「確実って、もう決まりってことよね」。後ろの席で誰かが言う。「そうそう、確実は確実だもの」。その一言が、会場のあちこちに移っていく。確実、決まり、もう決まり。三回、四回。わたしは用紙に書く。この言葉は、いま同じ像を持ち始めている。
長机の端に、椅子が一脚増えている。さっきまで二脚だった。その椅子に、赤茶色の丸いものが乗っている。大きな傘をたたんで、机に押しつけたような形だ。柄はない。無柄のまま、艶のある面だけが机に貼りついている。霊芝を磨いて人の背丈にしたら、こうなる。
それは石野さんの隣に座っている。石野さんには、見えていない。
近づくと、湿った木の匂いがする。雨のあとの林で、古い切り株の根もとに手を置いたときの匂いだ。面のふちは、ときどき小さく波うつ。サルノコシカケのように、ぐっと机に張りついて動かない。それなのに、見ているとこちらへ寄ってくる気がする。
石野さんの前の席の人は、あとずさりして椅子ごと倒れた。「いま、誰か座ってる」と言う。でも次の瞬間には、その人も拍手に混ざっている。見えた、という記憶ごと、拍手に溶けてしまう。
「石野さん、おめでとうございます」と、わたしは声をかける。「お名前は、どう呼ばれたいですか」。石野さんは口を開く。声が出ない。喉が動いて、息だけが漏れる。そのとき、スピーカーが言う。「石野です。よろしくお願いします」。石野さんの声ではない。田端さんの声でもない。
元選管の職員だという橋口さんが、人をかき分けて前に出る。「待ってください。確実は確定ではありません。まだ半分も数えていない」。正しい言い方だ。橋口さんは、いちばん落ち着いている。
その途端、会場の空気が下がる。「まだ」という言葉が、赤茶の面に吸われていく。橋口さんが「まだ」と言うたびに、板の数字が一つ増える。誰も書いていない。机の上の票が、一枚ずつ重なっていく。
「ただいま、橋口さんの」
放送が途切れる。三秒ほど、会場に誰も音を出さない。
再開した声は、短くなっている。「繰り返します。確実。確実。石野さん、確実」。言葉が減っている。田端さんの顔が、スピーカーの下で白い。田端さんの口は動いていない。
わたしの手元で、用紙の字が書き換わる。「記録者」と書いたはずの欄が、「確実」になっている。耳のうしろで、湿った声がする。「ななお、確実」。名前を呼ばれかけた。わたしはペンを持ち直し、自分の名の横に線を引く。「いまは、数えているところです」。声に出してそう言う。赤茶の面が、わずかに横を向く。
石野さんの指が、机を叩いている。とん、とん、と、こまかく。わたしは紙とペンを石野さんの前に置く。石野さんは、震える字で書く。「まだ、すべて数えて」。そこで手が止まる。赤茶の面が、石野さんの肩に乗る。
わたしは、ほかの人にも小さく声をかけて回る。「まだ数えています」と、一人ずつ耳もとで言う。言われた人は、うなずく。でもスピーカーが「確実」と言うと、うなずきはすぐ薄くなる。声の大きいほうに、みんなの顔が向いてしまう。
壁の時計は九時四十分。板の数字は、わたしの数えた合計より、三つ多い。数え直すと、また一つ増えている。赤茶の面は、石野さんの隣でじっとしている。その面に、会場の灯りがうつって、一部だけが濡れたように光っている。
開票は十時に終わる。石野さんは当選した。その場で拍手が起き、スピーカーが祝いを言う。石野さんの声は、もう戻らない。手紙と紙だけが、石野さんの言葉になる。
赤茶の面は、十一時には机から消えている。椅子は二脚に戻っている。でも、床の板には、傘のかたちの丸い跡が残っている。わたしはその跡の寸法を記録する。
帰り道、バス停の自動販売機に、ともし火が一つ増えていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「マンネンタケ科」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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