階段降りは出席番号順に ダム湖へ続く九段の石段
「おりまーす」
体育館の舞台の上で、四人の声がそろった。十月十六日の夕方、五時四十分。鴇江市の北、ダム湖のほとりに建つ高校の体育館だ。空は晴れていて、窓の外の湖面はもう暗くなりかけていた。ダンス部の五人は、文化祭の幕開けを練習していた。舞台の奥に置いた木の階段を、一人ずつ降りてくる。出席番号の順に。五人目の若菜さんだけが、まだ一番上に立っていた。
わたしがこれを書いているのは、その三日後の夜だ。先に書いておく。若菜さんは戻らなかった。
第四課がこの語を受け付けたのは、同じ日の昼だった。「階段降り」という語が、前の晩から急に増えていた。本来は、歌の番組の始まりに出演者が階段を降りてくる、あの場面のことだ。投稿は一晩でおよそ二千三百件。数だけなら珍しくない。気になったのは、添えられた言葉がどれも似ていたことだ。「出席番号順」「最後の一人」「降りたら別人」。
部室で四人に話を聞いた。四人は手首に、色の違うリボンを巻いていた。赤、青、黄、緑。若菜さんのリボンだけが白だった。部長の美咲さんが説明してくれた。「階段降りって、変身なんだって。一段降りるごとに、ステージ用の自分になれる。そのかわり、降りた段にはもう戻れないの」。だれに聞いたのかと尋ねると、四人とも「みんな言ってる」と答えた。
つまり、約束はこうだった。差し出すのは、降りた段の数だけの元の自分。もらえるのは、本番で輝く姿。合言葉は「おりまーす」。そして、最後に降りる子がいちばん大きく変身する。出席番号が最後なのは若菜さんだった。彼女は湖の上に柱を立てて家が並ぶ水上集落から、毎朝水上タクシーで通っていた。若菜さんは笑った。「じゃあ、わたしが一番かわいくなれるってこと?」
六時十分。練習の最後の一回で、照明が落ちた。木の階段は五段のはずだった。一段は十七センチ。わたしが数えると、九段あった。下の四段は石だった。濡れていて、湖の匂いがした。段は舞台の床を抜けて、さらに下へ続いていた。床下の暗がりから、水が柱に当たる音がした。ダム湖の水の音だった。
どこからか、声が数え始めた。「いち、に、さん、し、ご」。そして「ろく」。部員は五人だ。気づくと、わたしの右足が一段目の石に乗っていた。石は体温より少し高かった。あとで測ると三十八・二度。あの温かさを言い表す語を、わたしは持っていない。足を引いて手帳を見た。わたしの字で「おりまーす」と一行書いてあった。書いた覚えはない。
若菜さんは降りていた。六段目に足を置いた瞬間、制服がほどけた。紺の布が水のように流れ落ち、白いドレスの形で固まった。裾から水がしたたった。顔は舞台用の笑顔のまま止まった。まばたきをしても、口の端が下がらない。「戻りたい」と言った声だけが、その笑顔と合っていなかった。彼女は上の段に足をかけようとした。でも、さっきまで立っていた段が、もう無かった。
舞台係の蓮くんが走ってきた。「階段降りなんて、ただ歩いて出てくるだけっすよ。段なんかどこにも無いでしょ」。彼の言うことは正しい。だから、彼には石の段が見えなかった。若菜さんの腕をつかもうとした手は、何もない空中を握った。彼の目には、若菜さんが平らな床の上で、少しずつ低くなっていくだけに見えていた。
わたしは一番上の段に座った。降りずに、下へ向かって話しかけた。いつからここにあるのか。何人を下ろしてきたのか。答えの代わりに、水の音が一段ずつ上がってきた。わたしは尋ねた。「何と呼ばれたいですか」。答えはあった。けれど、ここには書かない。若菜さんは九段目にいた。もう、こちらを見上げなかった。ドレスの裾が、床下の水に溶けていた。既存のどの分類にも、あの段は当てはまらない。
そのあと、四人に頼んだ。幕開けを変えてほしい。階段を使わず、舞台の袖から歩いて出てほしい。そして「階段降り」を、あの意味で口にしないでほしい。四人は泣きながらうなずいた。美咲さんが赤いリボンをほどいた。ほかの三人も続いた。四人の足元の段は、その夜のうちに乾いた。間に合ったのは、四人の分だけだった。
三日たった。投稿は一日に数十件まで減った。舞台には、元の五段の木の階段だけが残っている。照明が消えるとき、ほかの人はみんな目をそらした。最後まで見ていたのは、わたしだけだった。今でも夜に数えると、ときどき六段ある。一番下の段だけが、いつも少し濡れている。教室の点呼で最後の番号が呼ばれると、床下から小さく「おりまーす」と返事がある。蓮くんには、その声が聞こえない。夕方の水上タクシーは、今も一人分の席を空けて出ていく。
あの日の天気は晴れと書いたが、手帳を見直すと、夕方から薄曇りだった。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「バンダルスリブガワン」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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