寒暖差と、分かれた群れの片方
「寒暖差にやられた」。最初の一人は、玄関で上着を脱ぎながらそう言った。夜の空気が、開いた戸から足もとに入ってきた。わたしは灯番号を書いた。T-20261005-02。受理は十月五日、二十一時十分。早瀬の予測では、「寒暖差」という語の使用が、週のはじめから三日続けて閾の手前にあった。十月の鴇江市は、昼が二十五度、夜が十三度だった。差は十二度。数としては、それだけのことに過ぎない。
聞き取りは、調整池のそばの新しい住宅区で行った。池には小島が三つある。いちばん大きな小島に、古い博物館が建っている。住民は博物館の庭園を散歩道にしていた。話を聞いたのは七人。全員が、最初の一人と同じ言い方をした。
像。わたしは一語ずつ確かめた。七人は寒暖差を、数ではなく、一つの生き物だと思っていた。昼の温かさと夜の冷たさのあいだを飛び回る、大きな一つのもの。それが身体に入ると、だるくなる。四人は「追いかけてくる」と言った。一人は「庭園の奥から来る」と言った。誰も、それが群れだとは考えていなかった。一つだと信じていた。
正しくは、寒暖差は差に過ぎない。二十五から十三を引いた、十二という数である。生き物ではない。わたしはそう記録した。けれど誤解のほうが、七人の身体には馴染んでいた。言葉は、正しい側ではなく、馴染んだ側に実体を与える。
顕。十月六日の夕方、博物館の庭園で羽音がした。蜂に似た音だった。でも蜂はいなかった。音だけが、生け垣の高さで、一つの塊になって動いていた。塊は温かかった。近づくと、頬のあたりだけ昼に戻った。住民の一人、宇田川さんがそれを「寒暖差だ」と呼んだ。呼んだ瞬間、塊は彼の肩に乗った。
塊は一つの生き物として振る舞った。つまり、誤解のとおりに。宇田川さんが家に入ると、塊も入った。温かい部屋では、塊はおとなしかった。彼が窓を開けると、塊は窓の外の冷たさへ、半分だけ出た。半分だけ、という点が重要だった。それは一つに見えて、恐らく、最初から群れだった。
わたしは早瀬を呼んだ。早瀬は統計の人間で、寒暖差が数だということを、鴇江市でいちばん正しく知っている。彼女は塊に向かって言った。「あなたは十二度です。差です」。塊は彼女の声に寄っていった。彼女の手が白くなった。指先から、温度が数字のように抜けていった。正しく知っている者ほど、温度を数として取り出されやすい。そう言ってよい。わたしは彼女を庭園の外へ連れ出した。手は戻らなかった。その日は。
十月八日の夜、塊が割れた。養蜂で言う分蜂に似ていた。羽音が二つになった。一つは宇田川さんの部屋に残った。もう一つは、宇田川さんの中に残った。彼は部屋を出た。外は十一度だった。彼の身体は、その日から温かくならなかった。体温計は三十六度を示した。でも手は冷たかった。妻が触れても、湯飲みを持っても、冷たいままだった。温かさは、部屋のほうの群れが持っていった。
聴。わたしは宇田川さんの部屋で、羽音のほうに話を聞いた。何と呼ばれたいですか、と尋ねた。答えはあった。記録しない。羽音は、分かれたことを悲しんでいるようにも、満足しているようにも聞こえた。わたしは退治しなかった。方法を知らない。知っていても、しない。記録した。
宇田川さんは、温かい部屋にいれば楽だった。でも部屋の群れは、彼が入ると肩に乗り、出ると残った。だから彼は部屋から出なくなった。妻は湯飲みを先に温めてから、彼に渡すようになった。延命というのは、こういう形を取る。治ることではない。続くことである。
老松が同行していた。彼は何も言わなかった。千九百五十三年組の人は、語現体の前で喋らない。帰りの車で、彼は手帳に一字だけ書いた。わたしには読めなかった。読めなかった、とだけ記録する。
薄。十月の終わりに天気が落ち着いた。昼と夜の差が小さくなった。「寒暖差」という語は、天気予報からも住民の口からも減った。羽音は小さくなった。でも、庭園の生け垣には、夕方になると頬だけ温かくなる場所が一つ残っている。宇田川さんの手は、いまも冷たい。
説明のつく側と、つかない側がある。つく側はこうだ。語の頻度と塊の出現は一致した。差を数として理解する者ほど温度を取られたことも、記録と一致する。つかない側はこうだ。分かれた群れは二つのはずだった。部屋にも、宇田川さんの中にも、いない分がある。羽音が三つに聞こえた夜があった。三つ目は、わたしの近くにいた。
わたしは以上を分析として書いた。けれど分析は、一つの事実で無効になる。わたしの手も、あの夜から冷たい。
三つの小島のうち、誰も住んでいない小島に、灯りが一つ増えていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「フレデリクスボー城」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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