寒露の朝、観測用紙に先に書かれていた気温

寒露の朝、観測用紙に先に書かれていた気温

語現鴇江市寒露気象観測

「冷えてきましたね。お体、気をつけてくださいね」

観測小屋の戸口で、宮下さんはそう言って、湯気の立つ麦茶をわたしに渡した。小屋は鴇江市の東の外れにある。三つの支流が合流する場所だ。川はそこから先で広がり、海の手前で三角州をつくる。小屋の横には、白い百葉箱が一つ立っていた。

「毎正時に、ここで読むんです。気温、湿度、風向、視程。用紙に書いて、それでおしまい」 「ずっとお一人で?」 「四十年です。退屈な仕事ですよ」 宮下さんは笑って、記録用紙を見せてくれた。

午前六時。気温十一・二度。湿度八十八パーセント。風向、北北西。視程、八キロ。そこまでは、宮下さんの丸い字だった。でも、まだ来ていない七時の欄にも、数字があった。十・四度。細くて、触ると冷たそうな字だった。

その朝、町では一つの語が急に増えていた。寒露。駅の掲示にも、ラジオにも、学校の連絡帳にもあった。夜明けから三時間で、使われた数は閾のすぐ手前まで来ていた。わたしはこの件を T-20261008-01 として受け取り、聞き取りに回った。

商店街の八百屋のおばあさんは、みかんを一つくれた。 「寒露って、寒さが露わになる日でしょう。隠れてた寒さが、見えるようになるの」 バス停の高校生も、同じことを言った。 「見えない寒さが、出てくる日だって。先生が言ってた」 二人とも、別れ際に言った。「冷えてきましたね。お体、気をつけて」

誤解の形は、それで決まった。寒さは、どこかに隠れている。寒露の日には、それが姿を見せる。町の人は、そういう像を一緒に持っていた。

小屋に戻ると、宮下さんが首を振った。 「寒露の露は、つゆですよ。草に降りる、冷たい露です。露わ、じゃない」 「そうですよね」 「ええ。誰に言っても、ああそうなの、で終わりますけどね」 そう言って、また笑った。正しい意味を知っているのは、たぶん町で宮下さんだけだった。

七時。宮下さんは百葉箱を開け、温度計を読んだ。 「十・九度」 用紙に書く。でも、書いたそばからインクがにじんだ。線が細くなり、十・四に変わった。温度計の赤い柱が、ゆっくり下がった。十・四度で止まった。観測した数字に、用紙が従うのではない。先に書かれた数字に、空気のほうが従っていた。

百葉箱の向こうの草地に、白いものが立っていた。人の背丈ほどある。表面は細かな露でびっしり覆われていた。濡れた草の匂いがした。水が一滴ずつ落ちるような音がした。わたしの首の後ろに、冷たい指が触れたような気がした。

「ただの露です。放射冷却で、露点を下回っただけです」 宮下さんは、はっきりそう言った。言うたびに、用紙の上の丸い字が一つずつ消えた。六時の欄も消えた。残ったのは、細い字だけだった。正しく読む人の記録から、先に消えていった。

八時の欄には、もう九・〇度と書いてあった。わたしは手帳を開いた。次の行に、わたしの字ではない字があった。「八時 わたし 九・〇度」。指先がしびれた。ペンの先に、露が丸くついていた。

わたしは白いものの前に立って、尋ねた。 「何と呼ばれたいですか」 答えは聞いた。ここには書かない。記録の上では、ツユミセと仮に呼ぶ。止める方法は、わたしにはない。わたしにできるのは、毎正時に並んで数字を読み、書き残すことだけだった。

八時になった。宮下さんは、戸口の丸椅子に座っていた。体じゅうが、細かな露で覆われていた。朝の草の葉と同じだった。息は、もう白くならなかった。手に触れると、外の空気と同じ冷たさだった。まつげの露は、まばたきをしても落ちなかった。 「冷えてきましたね。お体、気をつけて」 宮下さんはそう言って、それきり何も言わなかった。

近所の人が来てくれた。救急車も来た。 「よかったですね、すぐ見つけてもらえて」 「よかったですね。あなたがいてくれて」 「冷えてきましたね。お体、気をつけてくださいね」 みんな親切だった。みんな、わたしの肩に毛布をかけてくれた。誰も悪くなかった。

昼を過ぎると、寒露という語は減っていった。三角州の白いものは、少しずつ薄くなった。最後まで見ていたのは、わたしだった。ほかの人は、毛布をたたむほうを見ていた。それでも、用紙の欄は消えなかった。翌朝六時までの欄が、細い字で全部埋まっていた。

宮下さんは戻らなかった。病院では、体温が外の気温と同じ数字のまま動かないと聞いた。支流ぞいの道を帰るとき、わたしの息は一度だけ白くなった。手帳の九・〇度の行は、まだ消えていない。

帰りの坂の途中、閉まった花屋の奥で、灯りが一つ増えていた。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「韓江」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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