木の日の夜、貯木場の桟橋で根を張った観測者
「木の日って、木を植える日ですよね。だから今週は、切るのはなしで」
十月六日、夕方。鴇江港のはずれの貯木場で、若い当直の野添さんがそう言った。黒い水の上に、丸太が筏のように組まれて浮いている。見張り小屋の赤いランプが、水面に細く伸びていた。——ここの夜は、陸の見えない船の上に似ている、と野添さんは笑った。
わたしがここに来たのは、木の日という語が、この港のまわりで急に増えていたからだ。町内の掲示板にも、小学校の貼り紙にも、同じ絵があった。苗木を植える緑の手と、斧に赤い×をつけた印だ。
聞き取りをすると、みんなの像は一つにそろっていた。木の日は、木を植えて守る日。その日は木を切ってはいけない。でも、それは正しくない。十と八を重ねると「木」の字になる。だから十月八日で、木材をもっと使おうという日だ。そう教えてくれたのは、年長の当直の坂巻さんだった。四十年、丸太を扱ってきた人だ。けれど、坂巻さんの話を最後まで聞いた人はいなかった。
当直日誌は、船の航海日誌と同じ形で書かれている。日付、時刻、天気、異常の有無。交代は二十三時と五時。その交代のあいだだけ、桟橋を誰も見ていない時間が五分ほどある。
十月七日、朝。五時の交代で来た人が、夜番の長靴を見つけた。長靴は桟橋の板に、立ったまま貼りついていた。持ち上げると、靴底から白い糸のような根が何本も切れた。夜番は交代の前に少しだけ、端に立ち止まって沖を見ていたという。足は無事だった。わたしの記録は一行だけだ。七日。靴底に根。
十月八日、夜。木の日の当日だった。二十二時すぎ、高校の天文部の志摩さんが、望遠鏡を抱えて桟橋に来た。今夜、小さな小惑星が、明るい星の前を横切る。星が一瞬だけ隠れる。それを掩蔽と呼ぶのだと、志摩さんは教えてくれた。「形がいびつなので、場所によって消え方がちがうんです。だから、暗いところで測りたくて」
坂巻さんは、帰りなさいと言った。志摩さんは首を振った。予報の時刻は二十三時二分。交代の時間と、ちょうど重なっていた。「動かないでくださいね。星が消えるのは、四秒くらいなので」
二十三時。野添さんが小屋へ戻った。坂巻さんは、まだ来なかった。桟橋には、わたしと志摩さんだけが残った。風が止まり、外灯の青白い光が水に沈んだ。濡れた樹皮の匂いがした。そのあとから、甘くて鋭い葉の匂いがきた。煮込み料理に入れる、月桂樹の葉の匂いだった。
筏の上に、背の高い影が立っていた。輪郭が木目のように、ゆっくり波打っている。近づくと、空気が体温より少しだけ温かかった。影は、木の上で動かずに立つ人を探していた。木の日には木を植える。植えるのは、動かずに立っているものだ。みんなの像は、そこまで決めていた。
わたしのかかとが、板に吸いついた。足を引くと、靴下の裂ける音がした。板の継ぎ目から、白い根が三本、わたしの足首へ伸びかけていた。わたしは一歩下がり、それからずっと足を動かし続けた。止まらなければ、植えられない。
「志摩さん、動いて」
「今動いたら、測れません」志摩さんはストップウォッチを握ったまま、接眼鏡から目を離さなかった。白い星が、すっと消えた。一、二、三、四。星は戻らなかった。五、六、七。志摩さんのスニーカーが、内側から裂けた。灰色の樹皮が、すねを上へ登っていく。足の指が、板の割れ目へ根を下ろしていく。
足音がして、坂巻さんがのこぎりを持って走ってきた。「今日は木を使う日だ。切っていい日なんだ」坂巻さんは正しかった。でも、刃は根に入らなかった。ガラスの上を滑るように、何度も空回りした。正しい意味を知る人の手には、この根は硬すぎた。みんなが、切ってはいけないと信じているからだ。野添さんは小屋の戸口で、手を伸ばすこともできなかった。
十一。——星が戻った。志摩さんの口が「出た」と動いた。それが最後の言葉だった。腰から下は、もう細い幹になっていた。
わたしは影に近づいて、何と呼ばれたいですか、と聞いた。影は答えなかった。ただ、低い声で何度もくり返した。植えた。守る。切らない。わたしはそれを書き取った。退治はしない。できるのは、聞いて、残すことだけだ。
十月九日、零時をすぎて、木の日という語は急に減った。影は薄くなり、筏の丸太のすき間へ吸いこまれていった。最後まで見ていたのは、わたしだった。坂巻さんも野添さんも、ずっと足もとの板を見ていた。
朝、桟橋の先には、背の低い木が一本立っていた。濃い緑の葉から、月桂樹の匂いがした。枝に、ストップウォッチが下がっていた。表示は十一秒のまま止まっていた。誰も、その木を切ろうとしなかった。坂巻さんでさえ、のこぎりを小屋にしまった。志摩さんは戻らなかった。
日誌には、上流から来る丸太の筏の入港予定が書いてあった。九日、六時。筏は河口の沖まで来て、そこで止まった。灰色のうねりの上で、何日たっても入ってこない。当直は交代のたびに、目視で同じ一行を書く。入港せず。わたしの記録も同じだ。十日。入港せず。
あとで、ほかの町の観測の記録を見せてもらった。星が隠れていたのは、どこでも四秒あまりだった。この桟橋の十一秒だけが合わない。小惑星のほかにも何かが、七秒のあいだ、星の前に立っていたことになる。
駅前のバス停で、雨が降りだしたと思った。——正しくは、日よけの布を叩く、乾いた落ち葉の音だった。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「(41) ダフネ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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