鍵を中に置いた夜の座談会、扉の小窓に残された人
葛西(司会)「では、始めます。テーマは、なかキーです。鍵を中に置いたまま閉めてしまった話を、順番に」島田(運転手)「順番なんて無理だよ。おれ、今月三回やってるんだから」野口(パート)「三回? わたしは二回。でも二回目のとき、中に誰か」宮内(学生)「あ、それ、ぼくも見ました」
十月七日の夜だった。末広町の公民館、二階の小会議室。扉は先月、オートロックに替わったばかりだ。机の上に、参加者の鍵が並んでいた。名札の代わりに出してもらったのだ。わたしは記録係として、端の席にいた。わたしは鍵を数えた。一度目。六つ。五人の鍵と、わたしの鍵だ。
島田「一度目は車。二度目も車。三度目は家。どれも同じなんだよ。窓からのぞくと、鍵の横に誰かいる。座ってて、鍵を持ってる。預かってるんだ」野口「そう、預かってるの。頼めば返すって、うちの母も言ってた」宮内「ぼくのときは、運転席にぼくがいたんです。ちょっと暗いぼくが」古賀(錠前屋)「みなさん、違います。なかキーは、ただの閉め忘れです。扉を閉めた勢いで、ラッチという爪が出るだけです」葛西「古賀さん、ありがとうございます。ええと、島田さん、続きを」島田「だから、預かってるんだって」
発言は重なり、誰も最後まで聞いていなかった。島田さんは三回と言った。野口さんは二回と言った。宮内さんは一回と言った。でも、重なったところは同じだった。中に誰かいる。その誰かが鍵を預かっている。返すかもしれないし、返さないかもしれない。これが像だった。統計官の早瀬さんによると、この週、市内でこの語は前の週の三倍使われた。市営住宅のオートロック化が始まった週だった。灯番号はT-20261007-02。
宮内「二重星って知ってますか。夜空で並んで見える星の組です。本当に回り合っている組は、連星っていいます。明るい方と、暗い方」野口「話、それてない?」宮内「それてません。暗い方は、重さのわりに暗すぎることがあるんです。だから、昔から気にされてきた。なかキーの中の人も同じです。暗いのに、重い」葛西「沈黙が、四秒ありましたね。では次の方」
八時十二分、島田さんが席を立った。会社に電話をすると言った。扉が閉まった。かちり、と小さな音がした。机の上には、島田さんの鍵の輪が残っていた。車の鍵と家の鍵が、一つにまとめてあった。
島田(扉の外)「おい、開けてくれ」葛西「あ、いま開けます。……開きません」古賀「内側からは開くはずです。つまみを回せば」古賀「……回りません」野口「ねえ。島田さんの席」
島田さんの椅子に、誰かが座っていた。輪郭が薄かった。蛍光灯の下で、そこだけ光が足りなかった。それなのに、座面は深く沈んでいた。人ひとり分より重そうに。それは島田さんの鍵の輪を、指に掛けていた。湿った金属の匂いがした。
扉を叩く音がした。一度目。二度目。三度目。古賀さんは工具を出し、つまみの金具を外した。古賀「仕組みは分かっています。爪が出ているだけです。ここを押せば、引っこみます」古賀さんが押しても動かなかった。葛西さんが押しても動かなかった。野口さんが押すと、少しだけ動いた。古賀「握られてる。中で、何かが握り返してる」正しい仕組みを一番よく知る人の手だけが、まったく役に立たなかった。
扉の小窓に、島田さんの顔があった。叩く音は、回を追うごとに小さくなった。四度目。五度目。六度目は、音がしなかった。顔だけが窓にあった。色が抜けていった。明るい星のすぐ隣で、暗い星が見えにくくなるのと同じだった。島田さんの口が動いた。声は届かなかった。
わたしは、島田さんの席の隣に座った。それは鍵を持ったまま、こちらを向いた。顔はなかった。体温より少し高い空気が、頬に当たった。わたしは、何と呼ばれたいですか、と尋ねた。返事は記録していない。それは、わたしの鍵に手を伸ばした。机の上で、わたしの鍵がひとりでに滑った。一つ分、それの方へ。わたしは押さえなかった。押さえたら、預けたことになる気がした。鍵は、それの指の手前で止まった。
葛西「……沈黙が、十二秒です」宮内「連星は、片方だけ逃げられないんです」野口「やめて」古賀「ただの爪なんです。ただの」葛西「次の方」誰も答えなかった。
十一時を過ぎ、誰もその語を口にしなくなった。扉は、ひとりでに開いた。廊下には誰もいなかった。島田さんの靴だけが、扉の前にそろえてあった。小窓のガラスには、顔が残っていた。外から拭いても、内から拭いても消えなかった。とても低い等級の星のように、正面から見ると見えない。少し目をそらすと、見える。島田さんは戻らなかった。駐車場の車は、今も鍵がかかったままだ。
次の週、語の数は減った。椅子の人影は薄くなった。でも、座面は沈んだまま戻らなかった。公民館はその椅子を倉庫にしまった。最後まで見ていたのは、わたしだった。延命もできなかった。わたしは間に合わなかった。
説明のつくことはある。閉め出される人は、実際に増えていた。扉が開かなかった時間と、語が使われていた時間は一致する。説明のつかないこともある。帰る前に、わたしは机の鍵を数えた。島田さんの輪は消えていた。だから、五つのはずだった。一度目、六つ。二度目、六つ。持ち主のいない鍵が一つ、ほんのり温かかった。どの扉にも合わなかった。三度目は、途中で数えるのをやめた。
帰り道、川沿いの誰もいない倉庫の窓で、灯りが一つ増えていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「ペガスス座85番星」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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