きのこの日、採石場の赤い岩から白い傘が人を摘む
「重機を一台、出せますか。人は三人いります」。無線の向こうで、嶋田さんがそう言った。十月十五日、九時四十分。鴇江市の北のはずれにある、採石場からの出動要請だった。わたしが呼ばれた理由は、別にある。町で、ある言い回しが朝から急に増えていた。受理は九時二十分。その時点で、記録はまだ一行しかなかった。
採石場は、赤い砂岩の山を削っている。岩には、横に縞が走っている。層ごとに色が違うのは、酸化鉄の量のせいだと嶋田さんは言った。赤にも、黄色にも、紫にも見える。去年、いちばん奥の斜面で、恐竜の足あとが見つかった。三十一個が、一列に並んでいる。数えたのは嶋田さん本人だ(同人の実測記録、昨年十一月付)。それ以来、奥の区画は入場許可証がないと入れない。今朝、若い作業員の宇野さんが、許可証を持たずにそこへ入った。無線は、八時五十分から返事がない。宇野さんは朝から、仲間のグループに同じ冗談を何度も書いていたという。「今日は狩られる側」。
格納庫には、大型の油圧ショベルが一台あった。動かすには三人いる。運転席に坂巻さん。前を歩いて道を示す人がひとり。無線で外とつなぐ人がひとり。整備員の根来さんが、燃料計を指でたたいた。「残量は四割。奥まで行って帰るには足りる」。起動の手順は十二あった。坂巻さんはそれを、声に出してひとつずつ読み上げた。わたしは、運転席の後ろの補助席に座った。前を歩く役は、嶋田さんが自分で引き受けた。
走りだす前に、わたしは三人に聞いた。きのこの日って、どんな日ですか。根来さんが先に答えた。「きのこの方の日だよ」。町の朝市のポスターには、こう書いてある。「きのこ狩りの季節です」。でも、町の人が話す絵は、向きが逆だった。きのこの日は、きのこが人を狩る日。岩からでも、土からでも、白い傘が上がってくる。傘の下に立った人は、足から白くなる。そして、根元から摘まれる。八百屋の人も、郵便局の人も、同じ絵を話した。坂巻さんもうなずいた。「だから今日は山に入るなって、親に言われて育った」。
嶋田さんだけが笑った。「きのこの日は、林業の団体が決めた記念日だ。きのこは岩には生えない。この砂岩には、養分なんか無い」。正しい。わたしも、そう知っている。
ショベルの窓は狭い。前と左右の、三枚のガラスだけだ。外の全体は見えない。見えるのは、キャタピラの先の赤い地面と、前を歩く嶋田さんの黄色いヘルメットだけだった。十時十二分、奥の区画の柵を越えた。窓の右下に、白いものが映った。小さな丸い傘だった。赤い岩の割れ目から、ひとつ。次に見たときは、ふたつ。坂巻さんがレバーを引いた。でもアームは、一拍おくれて動いた。油圧のせいだ、と彼は言った。その手は震えていた。
足あとの列の終わりに、宇野さんが立っていた。こちらに背を向けて、動かない。その頭の上に、白い天井があった。傘だった。幅は、ショベルのアームより広い。裏側には細いひだが、かごの目のように並んでいた。傘は音を立てずに、ゆっくり下りてきていた。窓ガラスの上の端が、白く曇りはじめた。
嶋田さんは、その下へまっすぐ歩いていった。「宇野、戻るぞ」。彼には、傘が見えていなかった。宇野さんの肩に、手をのばす。その手は、肩を通りぬけた。もう一度。また、通りぬけた。無線から、嶋田さんの声がした。「誰もいないぞ。足あとしか無い」。きのこの日の正しい意味を知っている人の手は、ここでは何にも触れなかった。
宇野さんの作業靴が、白くなっていた。靴から、すねへ。すねから、ひざへ。細い白い糸が、上へ上へとのびていく。霜が布の上をはうように。両足は、恐竜の足あとのくぼみに、すっぽりはまっていた。そこから岩に、根を張っていた。「宇野」と坂巻さんが叫んだ。宇野さんが、ゆっくり振り向いた。顔の左半分が、白い綿のようなもので覆われていた。口が動いた。でも声は出なかった。乾いた細かい粉が、ふわりと出ただけだった。
窓が、三枚とも白くなった。傘の裏が、運転席の屋根に触れたのだ。屋根の鉄板が、指で押したようにへこんだ。坂巻さんの手は、レバーから離れなかった。その手の甲にも、白い糸が浮いていた。わたしはドアを開けて、機体を降りた。赤い岩の上に、立った。靴の底から、冷たいものが入ってきた。ひもの結び目が、見ているうちに白く毛羽だった。わたしは傘の下で、手帳を開いた。「何と呼ばれたいですか」。ひだの奥で、小さな音がたくさん重なった。返事はあった。わたしはそれを、書きとめなかった。手帳に残したのは、わたしが仮に付けた名前だけだ。逆さ籠。
傘は、宇野さんの上で閉じた。かごのふたを閉めるように。音は、しなかった。傘が持ち上がったとき、そこには作業靴が一足だけ残っていた。中には、白い綿がぎっしり詰まっていた。坂巻さんが、ショベルで岩ごと掘ろうとした。アームは、また一拍おくれた。爪が岩に届いたとき、上にはもう、何も無かった。嶋田さんも根来さんも、途中から目をそらしていた。傘が見えなくなるまで顔を上げていたのは、わたし一人だった。
昼を過ぎると、町は別の話題に移った。あの言い回しは、夕方にはほとんど聞かれなくなった。白い傘も、見えなくなった。宇野さんは、戻らなかった。いまも戻らない。翌日、嶋田さんが足あとの列を数え直した。三十二個あった(同人の再測、十月十六日付)。最後のひとつは、恐竜の足ではなかった。作業靴の底の形をしていた。億年単位で古い岩に、靴底の溝まで、はっきり刻まれている。坂巻さんの右手には、いまも白い糸が一本、皮膚の下に残っている。抜こうとすると、指先まで冷たくなるそうだ。
わたしの記録は、四行で終わった。もしあなたが次にこの採石場の記録を開くなら、裸足では読まないでほしい。わたしの足の裏は、いまも少しだけ、岩のように冷たい。
帰りに寄った商店街の手芸店で、まだ名前の付いていない色の毛糸が、棚に一玉だけ残っていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「コヨーテ・ビュート」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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