化石の日、望遠鏡の中にだけ石の蛾が降りてくる

化石の日、望遠鏡の中にだけ石の蛾が降りてくる

語現鴇江市化石の日天体観測

「見えているのは、昔の光なんです。ずっと前に星を出た光が、いまやっと届いている」。屋上で、浅倉先生はそう言って、接眼レンズから目を離した。鴇江市の東にある高校の、天文部の屋上だった。風が冷たく、乾いた落ち葉の匂いがした。わたしが呼ばれたのは、ある言い回しが夕方から市内で急に増えていたからだ。

二十二時四十分、気温九度、シーイングは三。浅倉先生は、観測ノートにそう書く人だった。シーイングとは、星のゆれ具合のことだ。五段階で、数が大きいほどよく見える。部員は四人いた。そのうちの一人、二年の千早さんが、望遠鏡のそばの床に座っていた。毛布をかけられて、動かない。先生はわたしに、空いた折りたたみ椅子をすすめた。そして、一時間ほど前のことを話しはじめた。

「二十一時半ごろです。部員たちが妙なことを言い出しました。今日は化石の日だから、星を長く見ていると化石になる、と。星の光は化石の光だという話は、わたしが春の授業でしたんです。それが、どこかで記念日とくっついたらしい。化石の日の夜に空を見上げたまま動かないと、上から石の粉が降ってくる。からだが岩に写しとられる。羽をひろげた蛾が、石の中に閉じこめられるように。町の人も同じ話をしていると、部員は言いました。わたしは笑いました。化石の日は、古い生き物を研究する学会が決めた記念日です。明治三十七年に、あるアンモナイトが新しい種として報告された日にちなんでいる。星とは何の関係もない。そう説明しました。千早は接眼レンズをのぞいたまま、蛾がいる、と言いました。大きな蛾が、レンズの中で羽をひろげている、と。わたしも代わってのぞきました。いました。羽に、目玉のような丸い模様が二つある蛾です。カメラをつないで、三十秒の露出をかけました。写真には、星しか写っていなかった。それだけです」。

二十二時五十分、気温八度。わたしは部員の三人に聞いた。化石の日って、どんな日ですか。三人とも、同じ絵を話した。見上げたまま止まっていると、灰色の粉が降ってくる。粉がつもると、からだが石になる。そして足もとの岩に、羽をひろげた形で写る。一人は、駅前のパン屋でも同じ話を聞いたと言った。もう一人は、虫の図鑑をいつも持ち歩く一年生だった。「あれはスズメガの形じゃないです。羽の目玉の模様は、ヤママユガに近い」。彼の声は、少し震えていた。

二十三時、シーイングは二に落ちた。わたしは、千早さんと入れかわって接眼レンズをのぞいた。星の並びの手前に、蛾がいた。羽をひろげると、レンズの丸い視野からはみ出すほど大きい。羽は灰色で、ざらざらした石の肌をしていた。二つの目玉の模様は、穴だった。穴の奥に、もっと遠い星が見えていた。蛾は、ゆっくり降りてきていた。わたしは目を離して、肉眼で空を見た。星があるだけだった。でも、千早さんの肩の毛布に、灰色の粉がうすく積もっていた。

二十三時十分。千早さんの左手が、毛布の外に出ていた。指先が、乾いた粘土の色をしていた。わたしはその手に触れた。夜気よりも冷たく、石のように重かった。爪は、ガラスのように曇っていた。指の関節には、細いひびが入っていた。「先生、手が動かない」。千早さんの声は、乾いた砂がこすれるような音だった。彼女の影が、コンクリートの床に落ちていた。影のふちだけが、羽の形に少しへこんでいた。

浅倉先生は、千早さんを抱えて立たせようとした。「化石の日は学会の記念日だ。星は関係ない。ただの言い間違いだ」。正しい。わたしも、そう知っている。でも先生の手は、千早さんの肩の上ですべった。粉の上を、何度もすべった。先生には粉が見えていなかった。先生の目に映っていたのは、毛布にくるまって座る生徒だけだった。千早さんは一センチも動かなかった。

二十三時二十分。わたしの手帳にも、粉が落ちてきた。書いたばかりの字が、灰色に盛り上がっていく。指でなぞると、紙ではなく石の手ざわりがした。首の後ろが固くなってきた。わたしは、空から目を下ろせなくなっていた。蛾の羽音はない。ただ、とても細かいものが降る、さらさらという音だけが近づいていた。わたしは、上に向かって尋ねた。「何と呼ばれたいですか」。粉の降る音が、一瞬だけ言葉の形にそろった。わたしはそれを書きとめなかった。手帳に残したのは、仮の名前だけだ。灰羽。

零時。わたしは千早さんに、見えている星を一つずつ話してもらった。赤経と赤緯の読み方は、彼女のほうがくわしかった。話しているあいだ、彼女の口は止まらない。止まらないあいだ、粉はそれ以上つもらなかった。理由は分からない。次も同じとは限らない。浅倉先生と部員たちは、途中から床を見ていた。蛾が雲の向こうへ薄れていくまで顔を上げていたのは、わたし一人だった。零時四十分、雲が出て、星はすべて隠れた。灯番号はT-20261015-02。わたしの記録は、この夜も六行で終わった。

明け方、言い回しは町からほとんど消えていた。千早さんは家に帰った。でも左手の手首から先は、灰色のまま戻らなかった。いまも曲がらない。触ると、秋の夜の石の冷たさがする。屋上のコンクリートには、羽をひろげた蛾の形の跡が残った。鱗翅目の羽の粉のような細かい模様が、溝になって刻まれている。目玉模様の中には、小さな穴が十いくつ並んでいた。一年生が星図を全部めくったが、その並びはどこにも載っていなかった。そしてあの三十秒露出の写真の隅に、灰色の粉が一粒だけ写っていた。

帰り道、雨が降っていると思った。訂正する。降っていたのは雨ではなく、ただの細かい霧だった。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「カイコガ上科」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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