クリーニングの日と、指紋を落としに来る白い袋
「クリーニングの日に出すとね、ぜんぶ落ちるんだよ」。商店街のベンチで、ランドセルの女の子がそう言いました。となりの友だちは、うんうんとうなずいていました。九月の終わりの、夕方でした。わたしは、その「ぜんぶ」という言い方が、少しこわいと思いました。
その週、鴇江市では「クリーニングの日」という言葉が、学校の連絡や家の人の書き込みに急にふえていました。どれも、同じ言い方でした。わたしのところに灯がともったのは、二十九日の夕方です。灯番号は、二十九日の二番目になりました。わたしは、話を聞きに行くことにしました。
聞いた話は、どれも同じでした。「九月二十九日にお店に出した服はね、しみだけじゃなくて、着ていた人のあとも落としてくれるの」。あと、というのは、指紋や汗や、その服を着ていた日の失敗のことだそうです。四年生の真帆ちゃんは、宿題の読書感想文をやり直したいと言っていました。「字数が足りなくて、先生にしかられた日のシャツを出したの。そしたら、あの日がなかったことになるでしょ」。家の人も、笑いながら同じことを言いました。わたしは、みんなが同じ絵を頭に浮かべているのだと思いました。
でも、本当はそういう日ではありません。クリーニングの日は、衣替えの季節と、「ク(九)リーニング(二九)」の語呂合わせで決まった日に過ぎません。服を洗うお店の人たちの日です。人のあとを落とす日ではありません。つばめクリーニングの森田さんは、それをよく知っていました。森田さんはしみ抜きの職人で、しみは布の繊維のすきまに入りこむのだと教えてくれました。「それでも、指紋は落ちませんよ。あれは皮膚の模様です。服じゃない」。森田さんの言うことは、ぜんぶ正しいと思いました。
その夜のことは、うまく説明できません。だから、見たとおりに書きます。店の奥で、ビニールの袋がひとりでに立ち上がりました。ハンガーにかかったコートのような形で、中にはだれも入っていませんでした。湯気のにおいがしました。ふれると、アイロンをかけたばかりのシャツのように温かでした。それは真帆ちゃんのシャツをそっと広げて、手のひらをすべらせました。するとシャツの繊維から、灰色の糸くずのようなものが、するする抜けていきました。同じとき、店の前にいた真帆ちゃんが「あつい」と言いました。真帆ちゃんの指先から、細いうずまきの線が一本ずつ消えていきました。指紋が、なくなっていくのでした。
森田さんは「そんなはずはない」と言いました。「指紋は、洗っても落ちないんだ」。森田さんは、しみ抜きの薬を真帆ちゃんの指にぬりました。何も起きませんでした。白い袋は、一度も森田さんのほうを向きませんでした。森田さんの言葉は正しいのに、どこにも届いていませんでした。正しく知っている人ほど、何もできなくなるのだと思いました。
わたしは、袋の前にしゃがみました。退治のしかたは知りません。知らないままでいいと思いました。「何と呼ばれたいですか」と聞きました。袋は、しゅう、と湯気のような声で答えました。その答えは、ここには書きません。そのあと、袋はわたしの手帳に手をのばしました。見ると、わたしの書いた字が、はしから少しずつうすくなっていました。これでは筆跡鑑定をしても、だれが書いたのか分からなくなると思いました。わたしは手帳を閉じて、胸にだきました。袋はしばらくわたしを見ていました。それから、真帆ちゃんのシャツを、ていねいにたたみはじめました。
次の朝、言祝会の人が商店街で紙を配っていました。「落とされたものを、わたしたちは見送りました」と書いてありました。わたしの記録の書き方に、とても似ていると思いました。わたしは、そういうふうに書いたことはない、と思いました。でも、書いていないとは言いきれませんでした。それが、いちばんいやでした。
十月になると、「クリーニングの日」という言葉は、書き込みから消えました。白い袋も、店の奥で立ち上がらなくなりました。ただ、つばめクリーニングの天井には、だれも着ていないビニールの袋が一つ、今もふくらんだまま下がっています。森田さんは、あれだけは片づけられないと言っていました。
真帆ちゃんの指紋は、もどりませんでした。雨の日に歩いても、真帆ちゃんの足あとは地面に残りません。原稿用紙に名前を書いても、次の朝には白くなっています。先生は、だれの宿題なのか分からないと言いました。いちばんこわかったのは、家の人です。お母さんは真帆ちゃんの顔を見て、ときどき「ええと」と言ってから名前を呼びます。真帆ちゃんは、そのたびににこっと笑います。あの日のことだけを落としたかったのに、と真帆ちゃんは言いました。わたしは、何も言えませんでした。
説明のつくことと、つかないことを分けてみました。みんなが同じ誤解をしたから、あとを落とすものが出た。そこまでは説明がつきます。でも、あの袋がなぜ、わたしの字だけを途中でやめたのかは分かりません。こうして分けてみても、何も分からないのと同じだと思いました。
帰り道、空き店舗のシャッターの前に、まだ名前のない小さな白い花が咲いていました。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「法科学」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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