プレゼンの夜と、言葉の音を取る演台

プレゼンの夜と、言葉の音を取る演台

語現鴇江市プレゼン演台

「はじめに、受け台があった」と、篠原さんは言った。鴇江市の公民館、二階の小会議室だった。外の気温は十四度。この記録を書いている今、あの部屋の前方には、何も置かれていない。そのことを先に書いておく。

篠原さんが語った起源の話は、こうだった。むかし、鴇見山の頂上に平たい石の台があった。村の人は、言いたいことがあると、その台の前に立った。話し終えると、言葉の一部を台に置いて帰った。台は言葉を受け取るかわりに、願いを聞いた。だから、話す前には何かを差し出さなければならない。

わたしは翌日、市の資料室で調べた。鴇見山の標高は三百九十一メートル。頂上に石の台があった記録はない。古い地図にも、聞き取りの調書にも、その話は一行もなかった。篠原さんの話は、誰も見ていない出来事を、見てきたように語っていた。それなのに、この三日ほどで、同じ話を知る人が急に増えていた。

受理の連絡は、夜の九時十二分に来た。「プレゼン」という語が、市内でこの二時間に急に増えていた。増えた書き込みの多くは、プレゼンを「何かを差し出すこと」として使っていた。贈り物のプレゼントから、最後の一音が欠けた語。そう思っている人が多かった。

聞き取りで像を確かめた。同好会の会員は九人。そのうち六人が、同じことを言った。「プレゼンは、話す前に何かを渡すものだ」「渡さないと、向こうが勝手に取っていく」。若い会員の野坂さんは、笑いながら付け加えた。「だから、ちゃんと説明する人ほど、たくさん取られるんですよ」。誤解は、そこで形になっていた。

この夜の集まりは、小惑星の名前を決める発表会だった。会員の天文家の一人が、二年前に新しい小惑星を見つけていた。名前の案は、鴇見山。ローマ字で書いて、国際機関に登録する。その説明を、会長の篠原さんがすることになっていた。

部屋の前方に、演台が一つ立っていた。公民館の備品台帳に、その演台はない。高さは百十二センチ。木目の天板は、触ると体温より少し温かかった。会員たちは、ためらわずに物を置いた。ボールペン。飴。古い星図のコピー。置かれた物は、目を離したすきに天板から消えた。音はしなかった。

演台の近くは、古い紙のにおいがした。耳を近づけると、天板の奥で何かが小さく鳴っていた。ペン先で机をたたくような、乾いた音だった。わたしは時計で測った。音は四十秒に一度。置かれる物が増えると、その間隔は少しずつ長くなった。つまり、受け取っているあいだは、取りに来ない。

篠原さんだけは、何も置かなかった。「プレゼンはプレゼンテーション。説明のことだよ」。彼は正しかった。正しいから、説明をした。一枚目のスライドで、彼は山の名前を三回言った。三回目、声の途中が抜けた。「とき、やま」。口は動いていた。でも「み」の音だけが、部屋に届かなかった。

彼は気づかずに続けた。丁寧に、正確に話した。話すほど、抜ける音が増えた。十分後、彼の言葉は半分ほどしか聞き取れなかった。唇の端が白く乾いていた。舌が、冷えた石のように口の中で止まっているのが見えた。物を置いた会員たちは、何も失っていなかった。あれを言い表す語が、わたしには無かった。

演台が、わたしのほうへ少し傾いた。誰かが言った。「次は、記録係さんのプレゼンですね」。わたしは手帳を開いていた。灯番号を書いたページだった。T-20261012-02。見ると、日付の数字が一つ欠けて、一日ずれて読めた。わたしは声に出して読むのをやめた。説明をすれば、次はわたしが取られる。手帳を閉じると、表紙が少し温かかった。

わたしは演台の前に立った。何も説明しなかった。ただ聞いた。「何と呼ばれたいですか」。天板の木目が、わずかに波打った。答えは記録しない。そのかわり、部屋の物音を書き取った。空調の音。誰かのため息。篠原さんの、音の抜けた息。延命のためにできることは、それしかなかった。わたしは会員たちに、今夜はもう誰も説明しないでほしいと頼んだ。

零時を過ぎて、語の書き込みは急に減った。演台は少しずつ低くなった。午前一時には、膝の高さになった。二時、そこには床の四角い跡だけがあった。跡は、まわりの床より二度ほど温かかった。消えたのではない。薄くなっただけだ。会員たちは目を逸らしていた。わたしだけが、最後まで見ていた。

篠原さんの音は戻らなかった。今の彼は「み」の音を言えない。名前の案は、彼のかわりに野坂さんが書いて出した。登録の書類では、ローマ字のつづりから文字が一つ抜けていた。誰も気づかなかった。そのつづりのまま、名前は通った。どの分類にも、あれは当てはまらない。篠原さんは、自分が選んだ山の名前を、もう二度と口にできない。

帰り道の川べりで鳴いていた虫には、まだ名前がない。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。

題材の着想: ウィキペディアの記事「(44011) ジュウビチ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

コメント

投稿は公開されます。個人情報や誹謗中傷は書かないでください。作品はフィクションです。

同じタグのはなし