スポーツの日の体育館と、扉の外の足音

スポーツの日の体育館と、扉の外の足音

語現鴇江市スポーツの日体育館

体育館の床に、跳び箱が三段だけ積んであった。その上にマットが二枚。裏口の扉は、それで塞いであった。窓には青いビニールテープが、格子の形に貼ってあった。外は晴れていた。十月十二日、スポーツの日の朝だった。

この体育館は、鴇江市の北の山すそにある。昔は鉱山の選鉱場だった。掘り出した石から、使える石を選り分ける建物だ。閉めたあとで床を張り、市民体育館にした。廊下の壁には、古い札掛けが残っている。坑に入る人が自分の札を掛け、出るときに外す板だ。札は一枚も掛かっていなかった。

中にいたのは二十九人だった。朝から町内の運動会をしていた人たちだ。足音は九時すぎに始まった。建物のまわりを、大勢が同じ歩幅で走る音だった。窓の外には、晴れた駐車場があるだけだった。誰の姿も見えなかった。乾いた土と汗の匂いだけがした。足音は四分ほどで一周した。わたしが着いたのは十時だった。正面の扉から入れてもらった。

聞き取りは扉の内側でした。言うことは皆おなじだった。スポーツの日は、休んでいる人を外へ連れ出して走らせる日だ。座っている人は名前を呼ばれる。返事をしたら、出ていかなければいけない。回覧板の、みんなで外へ、という一行から広まったらしい。子どもも大人も、半分笑いながらそう言った。

最初に呼ばれたのは、管理人の鶴見さんだった。彼は足首をひねって、パイプ椅子に座っていた。外から点呼の声がした。鶴見さん。体育の先生のような、よく通る声だった。鶴見さんは、つい、はいと答えた。そして立ち上がり、横の扉を開けて出ていった。止める間はなかった。

次の周回で、彼は窓の前を通った。テープの隙間から見えた。鶴見さんは走っていた。ひねった足首が外へ曲がったまま、地面を蹴っていた。靴の底はもうなかった。顔は笑っていた。口だけが、はい、はい、と動いていた。声は出ていなかった。息だけが窓ガラスを白く曇らせた。それから四分ごとに、同じ窓の前を通った。

中学で体育を教えている宮下さんが、扉の前に立った。彼は祝日の法律の文を知っていた。スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培う日です。誰も無理に走らなくていい日です。彼はそれを、扉に向かってはっきり読み上げた。足音は少しも乱れなかった。中の人たちも、うなずかなかった。正しい文は、誰の思い描く形も変えなかった。宮下さんは壁ぎわに座りこんだ。次に呼ばれたのは、彼の名前だった。彼は両手で口を押さえて、返事をしなかった。

わたしたちは当番表を作った。誰か一人が、いつも館内を歩いている。そうすると呼ぶ声が減ることに、子どもが気づいたからだ。当番は十五分ずつ。表は扉の内側に貼った。わたしの名前は、午後二時の欄に書いた。水は給水用の容器が二つあった。残りの水は、容器にペンで線を引いて分けた。

足音の数は、だんだん増えた。昼には十人ぶんほどだった。夕方には三十人ぶんを超えた。外へ出たのは鶴見さん一人だ。市内のほかの場所でも、人がいなくなった届けはなかった。それでも足音は増えた。

二時になった。足音が、扉の前で止まった。初めてのことだった。扉に当てた手のひらが、人の背中のように温かかった。外から、紙をめくる音がした。それから声が、当番表を読み上げはじめた。表は内側に貼ってある。外から読めるはずはない。一時四十五分、宮下。二時、と声は言い、わたしの名の最初の一音を出した。わたしは立って、歩きはじめた。声はそこで止まった。足音はまた走りだした。

扉越しに、わたしは外へ訊いた。何という名で呼ばれたいか。返ってきたのは点呼だった。中にいる人の名前を、順に呼んでいく。返事をする人はいなかった。その中に答えがあったのかどうか、わたしは記録しない。

夜になった。わたしたちは交代で歩いた。歩く。座る。また歩く。床の同じ白線の上を、同じ向きに歩いた。祝日が終わる零時が近づくと、外の足音は少しずつ遅くなった。統計官の早瀬さんの集計では、この語は昼に最も多く使われ、夜に急に減った。灯番号はT-20261012-01。受理はその朝だった。

朝、扉を開けた。足音はなかった。建物のまわりの地面に、深い溝が輪の形に掘れていた。膝ほどの深さだった。縁はきれいに削れていて、採掘の跡に似ていた。溝は鉱脈を追うように、一周ごとに少しずつ斜めに下っていた。溝の底に、靴底が片方だけ落ちていた。鶴見さんは戻らなかった。二十八人を朝まで持たせた。延命はそこまでだった。何も終わっていない。

静かな夜には、今も溝のほうから足音が一つだけ聞こえるという。管理事務所の人がそう言った。廊下の札掛けには、いつのまにか札が一枚掛かっていた。名前は書いていなかった。わたしは当番表を剥がして、四つに畳んで鞄に入れた。帰りに、自動販売機で水を一本買った。

その夜、誰も通らない線路わきの物置で、灯りが一つ増えていた。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。

題材の着想: ウィキペディアの記事「鉱業」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

コメント

投稿は公開されます。個人情報や誹謗中傷は書かないでください。作品はフィクションです。

同じタグのはなし