銭湯の日の夜、九つしかない湯船の十番目に後輩がもぐった
「十秒もぐると、十番目の湯が開くんです」
十月十日の朝、ゲーム会社の小さな部屋で、柚木さんはそう言った。噂の決まり文句を、そのまま読み上げる声だった。部屋のすみには後輩の戸倉くんが座っていた。彼のまわりだけ、硫黄の匂いがした。
朝九時すぎ、この件は灯番号T-20261010-01として受理された。前の晩から、「銭湯の日」を含む投稿が鴇江市内でふだんの六倍に増えていた。投稿の多くは、ある小さなゲームの話をしていた。
秋のはじめに配信されたそのゲームは「湯守」という。二人だけの会社が作った、銭湯を切り盛りする遊びだ。遊ぶ人たちの間で、噂が広まった。銭湯の日の夜、番台の鈴を十回鳴らす。すると浴場の奥に、十番目の湯船が出る。その湯は遠い火山の底から来ている。だから黄色くにごり、硫黄の匂いがする。十秒もぐれば、裏の部屋に行ける。
昼前、わたしは仕様書を見せてもらった。湯船は九つしかない。鈴の裏技も、十番目の湯も、どこにも書かれていない。それなのにバグ票には、同じ報告が三百件以上並んでいた。「再現手順。鈴を十回。十番湯が出ない」。出ないことが、不具合として届いていた。
バグ票の書き方は、どれも同じだった。時刻は零時。場所は自宅の風呂ではなく、近所の銭湯。鈴は十回。湯船の写真を添えた人もいた。写っている湯船は九つだった。それでも本文には「十ある」と書いてある。柚木さんは一件ずつ「仕様です」と返していた。返すたびに、報告は増えた。
つまり、遊ぶ人たちはこう誤解していた。銭湯の日は「十と十の日」で、湯船が一つ増える日だ、と。本当は「せんとう」と読む語呂合わせだ。運動のあとに湯に入ろう、という意味もあった。柚木さんはそれを知っていた。仕様書を書いたのも彼女だった。
「夜中の零時でした。確かめに行こう、と戸倉くんが言ったんです。末広商店街の寿の湯は、一時まで開いています。ほかに客はいませんでした。私は笑っていました。十番湯なんて作っていない。銭湯の日は語呂合わせだと、私は知っていますから。戸倉くんが番台の鈴を十回鳴らしました。おかみさんは止めませんでした。浴場に入ると、奥のタイルの壁から、白い噴気が細く上がっていました。戸倉くんは、湯船が十あると言いました。私には九つしか見えません。何度数えても九つです。彼は何もない壁の前にしゃがみました。そして、湯に手を入れるように腕を沈めました。腕はひじまで、壁の中に消えていました。匂いが、喉が痛いほど強くなりました。私は仕様書の話をしました。そんな湯はない、と大きな声で言いました。言うたびに、足が床から離れなくなりました。戸倉くんは数を数えながら、壁の中へ頭まで入っていきました。十まで数える声が、湯の中から聞こえました。上がってきた彼の指先は、黄色い粉で固まっていました。彼は口を開けました。声のかわりに、白い湯気が出ました。今も、そうです。それだけです」
そのあいだ、戸倉くんは一度も口を開かなかった。わたしが名前を呼ぶと、彼は紙に「十」とだけ書いた。書いたあと、少しだけ口が開いた。湯気が細く出て、天井の近くで消えた。指先の黄色い粉は、洗っても落ちないという。
午後三時、わたしは寿の湯に入った。湯船を数えた。十あった。いちばん奥の湯は、タイルの壁の中にあった。黄色くにごった湯は、手を入れると体温より少し高い。泡がはじけるたびに、大勢の声が数を数えた。いち、に、さん。若い声ばかりだった。湯の底は見えない。のぞきこむと、底のほうで何かが白く光った。人の歯のようにも、小石のようにも見えた。湯気には、ゆで卵をむいたときの匂いが混じっていた。
気づくと、わたしの口も動いていた。手帳を見ると、知らない字で数字が並んでいた。一から七まで。書いたのはわたしの手だった。喉の奥まで湯気が入ってきた。わたしはペンを置き、八を書かなかった。
夕方、わたしは湯船のふちに座った。そして、何と呼ばれたいですか、と尋ねた。泡が十回はじけた。答えは、ここには書かない。この日の記録は短い。湯温、匂い、泡の数。それだけだ。
わたしにできたのは、延ばすことだけだった。番台の鈴を外してもらった。柚木さんには、噂を打ち消す投稿をしないよう頼んだ。打ち消す言葉も、その語を使うからだ。彼女は十番目の湯船を作らなかった。作れば噂が本当になる、と言った。
三連休が終わるころ、投稿は七分の一に減った。十番湯は薄くなった。最後の泡が消えるとき、おかみさんは目をそらした。わたしだけが、湯が壁に吸われるところを見ていた。でも、消えてはいない。奥のタイルは今もぬるく、目地から硫黄の匂いがする。鴇江市の近くに火山はない。寿の湯の湯は、水道水だ。あの噴気が、どこの山から来ているのか。誰も知らない。
戸倉くんの声は戻らなかった。彼は今も会社に来て、テストの手順を紙に書いている。書き終えると口を開ける。湯気が出る。そのたびに、部屋は少しだけあたたかくなる。
帰り道、駅の伝言板に、まだ名前のない記号が一つだけ白いチョークで書いてあった。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「イワオヌプリ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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