鉄道の日、引っ越しの最後の箱から線路が延びてくる
「箱は番号のとおりに開けてください。一番が台所、十二番が最後です」。引っ越し業者の古賀さんは、段ボールの角を軽く叩いてそう言った。十月十四日の朝だった。鴇江市を流れる川の左岸に、新しい団地が建っている。二本の川が合流する少し手前だ。このあたりは昔、小さな工業都市のような町だったと聞く。工場へ荷を運ぶ引き込み線が、団地の下を通っていたそうだ。
村瀬さんは、小学生の陸くんと二人で三階の部屋に越してきた。わたしは手伝いという名目で、玄関の脇に立っていた。局の観測では、この団地で一つの言い回しが急に増えていた。「鉄道の日は、線路が家まで来る」。受理は前の晩だった。記録用紙は、まだ三行しか埋まっていない。
一番の箱を開けたころ、隣の江口さんが挨拶に来た。「ようこそ。お疲れさまです」。手には蜜柑の入った紙袋があった。「今日は鉄道の日だから、荷物は壁ぎわにね。廊下は空けといたほうがいいわ」。村瀬さんは笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。三番の箱のころ、下の階の人も来た。「お疲れさまです。廊下は空けといてね」。同じ言葉だった。
五番の箱は布団だった。押し入れの奥に、前の住人の書き付けが一枚、画鋲で留めてあった。「十月十四日。線路が来る日。箱は壁ぎわへ。廊下に立たないこと」。鉛筆の字だった。最後の一行だけ、濃く書いてあった。「来た線路は、乗る人のところで止まる」。
「これ、みんなが言ってるやつですね」と村瀬さんは言った。わたしは住人に順に話を聞いた。答えは、どれも同じ絵だった。床の下から、錆びた二本の線路が上がってくる。古い引き込み線の続きだ。線路は廊下をまっすぐ延びて、誰か一人の足もとで止まる。止まった人は、乗客になる。どこへ行くのかは、誰も言わなかった。でも、全員が川の方角を指さした。
古賀さんだけが首をかしげた。「鉄道の日って、明治に初めて汽車が走った記念日ですよ。線路を敷く日じゃない」。正しい。わたしもそう知っている。でも、この団地でその意味を思い浮かべる人は、ほとんどいなかった。村瀬さんは、書き付けを陸くんに読んで聞かせた。「廊下に座っちゃだめだよ。線路が来るからね」。陸くんは「うん」と言った。その日、彼女はこの言葉を何度も口にした。
八番、九番と箱が減っていく。台所に食器が並び、カーテンが付いた。江口さんがもう一度顔を出した。「片づいてきたわね。よかったですね」。下の階の人も言った。「よかったですね。明るいうちに終わりそう」。古賀さんも言った。「よかったですね、奥さん。あと一箱です」。誰もが親切だった。
最後の十二番は、陸くんの箱だった。おもちゃの電車と、丸く繋ぐ青いレールが入っていた。陸くんは廊下に座って、それを開けた。
床が、きしんだ。フローリングの継ぎ目が二本、細く盛り上がった。そこから赤茶色の線路が浮いてきた。油と鉄の匂いがした。枕木の一本一本が、人の体温より少し温かかった。線路は玄関から廊下をまっすぐ延びて、陸くんの膝の前へ進んでいった。
「陸、どいて!」。村瀬さんが走った。陸くんを抱き上げて、自分が線路の上に立った。線路は、彼女の靴の先で止まった。
「奥さん、どうしました」。古賀さんには何も見えていなかった。彼は廊下を歩いて、線路の上をそのまま通った。足は引っかからなかった。それから村瀬さんの腕をつかんで引いた。でも、彼女の足は一歩も動かなかった。「何もないですよ。床ですよ、これ」。古賀さんの言うことは正しい。正しいから、彼の手は何もつかめなかった。
村瀬さんの靴が、線路に沈んだ。足首から下が、鉄の色に変わっていく。膝のあたりで、ガタン、ゴトンと音がした。床の下から、低い声がした。駅の案内のような声だった。「次は、むらせ。むらせ」。
そのとき、線路の先が一本、こちらへ曲がった。わたしの靴下のつま先に、錆が触れた。冷たかった。声が言った。「次は、な――」。わたしは一歩も下がらなかった。下がれなかった、と書くほうが正しい。声はそこで止まった。線路は、また村瀬さんのほうへ戻っていった。
わたしは床に膝をついた。「何と呼ばれたいですか」。線路の下で、車輪の回るような音がした。答えは聞こえた。でも、ここには書かない。わたしは記録した。受理。像、確定。顕、十二番の箱。それだけ書いた。
村瀬さんは歩き出した。足は線路から離れない。一歩ごとに、膝が鉄の音を立てた。玄関を出て、階段を下り、川の方角へまっすぐ進んだ。わたしは後を追った。古賀さんと江口さんは、途中で目を逸らした。わたしだけが、二本の川の合流するところまで見届けた。線路は、そこで水の中へ入っていた。村瀬さんは、水際で止まった。
夕方、村瀬さんは自分の足で戻ってきた。江口さんが玄関で迎えた。「おかえりなさい。よかったですね、線路がちゃんと来て」。下の階の人も言った。「よかったですね。これでこの家も、繋がりましたね」。村瀬さんは笑って「ありがとうございます」と言った。誰も悪くなかった。全員が、本気で喜んでいた。
村瀬さんの足首は、今も冷たく硬いままだ。部屋の中では、まっすぐにしか歩けない。角では一度止まり、体ごと向きを変える。そして、陸くんを呼ぶとき、彼女はこう言う。「次は、陸。陸」。陸くんは「はい」と返事をする。でも、彼女は返事を待たずに、廊下の端まで行ってしまう。
翌日から、あの言い回しは団地で使われなくなった。線路は見えなくなった。けれど、廊下の床には錆色の線が二本、薄く残っている。拭いても消えない。古い地図を見ると、引き込み線は川まで延びていなかった。線路がなぜ合流点を目指したのか、わたしには分からない。
帰りに見上げると、向かいの棟の空き部屋の窓に、灯りが一つ増えていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「ニジネカムスク」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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