ビールかけで負けははがれる、と商店会は信じた
「乾かしたら、紙だけ波打って、字はそのまま残ったんです」。第四課の窓口で、大学二年の真柴さんはそう言ってノートを置いた。表紙は茶色くふくらみ、少し酸っぱい麦の匂いがした。開くと、左のページに板書の写しがある。右の余白には、鉛筆の小さな書き込みがある。わたしはこのノートを借りた。この件の記録も、同じ形で書くことにした。
[板書の写し]九月十四日、植物分類。要点一、半寄生。緑の葉を持ち、自分でも光合成をする。けれど根は隣の草の根につなぎ、水をもらって生きる。赤線が二本。要点二、腺毛。茎や葉に生える細い毛で、先がべたつく。小さな虫がよく貼りつく。
[余白の書き込み]日曜、商店会の草野球。十四連敗が止まって、そのまま市民リーグで優勝。雨で延びたから、打ち上げは水曜の夜。駐車場でビールかけ。みんな、久米さんに一番かけるって言ってる。
灯番号は T-20260917-02。末広商店会の連絡網で、「ビールかけ」という語が三日で四百十二回使われた。ふだんの月は一回もない。受理した日の夕方、わたしは商店街を回って聞き取りをした。駐車場の掲示板には、言祝会のちらしが貼ってあった。泡は清めの顕現である、と書いてあった。文の区切り方が、わたしの記録によく似ていた。
[わたしの板書]要点一、ビールかけは負けた分を洗い流す。要点二、浴びると、負けていた自分が一枚はがれて排水溝へ流れる。要点三、一番負けを背負った人に、一番かける。八百屋の店主も、魚屋の奥さんも、ほぼ同じ言葉で言った。つまり、この商店会の泡は、お祝いの水ではない。はがすための水だった。十四連敗のうち九試合で、捕手の久米さんの後逸が決勝点になっていた。だから、はがす相手は最初から決まっていた。
[板書の写し]要点三、基準標本。新しい種を発表するとき、見本の標本を一つだけ決めて保管する。種の名前は、その一枚に付く。似た株が何百あっても、名前の正しさはその一枚で決まる。消し跡が一つある。
[わたしの余白]水曜の夜、駐車場。かけ始めて三分で、久米さんにかかった泡が下に落ちなくなった。泡は背中で立ち上がり、人の形になった。久米さんより頭一つ高い。表面に細い毛がびっしり生えていて、毛の先が街灯を受けて光っていた。腺毛と同じで、べたつく。紙吹雪も羽虫も貼りついて離れない。足は地面に着いていない。白い根のような筋が何本も、久米さんの背中に刺さっていた。形は自分で持ち、水は彼からもらう。半寄生という字が、頭に浮かんだ。
[わたしの余白]泡の人が肩を抱くたびに、久米さんの皮膚が一枚浮いた。日焼けした首の皮が、薄い紙のようにはがれていく。はがれた皮には、ほくろも、ミットだこも、目じりのしわも全部ついていた。周りは手を叩いた。流れた、流れた、とみんなが言った。でも、はがれた一枚は流れなかった。人の形のまま、アスファルトに平たく貼りついた。残った久米さんの顔は、つるりと白かった。彼は笑っていた。自分の背番号を聞かれて、答えられなかった。
真柴さんは久米さんの腕をつかんだ。何もはがれないよ、ただのお祝いだよ、と叫んだ。それが正しい意味だ。わたしが辞書で引いた意味とも同じだった。でも彼女の手は、泡の人を素通りした。泡は彼女の袖に一滴もつかなかった。紙コップのビールだけが普通にこぼれて、鞄のノートを濡らした。正しい意味を知る人には、はがす水がかからない。だから、止める手も届かない。
わたしが近づくと、腺毛の一本が手首に貼りついた。手の甲の薄皮が、爪の先ほど浮いた。浮いた皮の裏に、わたしの字で「わたし」と三文字あった。わたしは下がらなかった。泡の人の横に立ち、話を聞いた。泡の人は久米さんの声で、負けた試合の点差を一つずつ言った。三対四。一対二。〇対一。十四試合ぶんを、全部言った。わたしはそれを左のページに写した。何と呼ばれたいですか、と尋ねた。返事は、ここには書かない。
商店会の人たちは途中で片付けを始めた。誰もこちらを見なかった。泡の人がしぼみきるまで見ていたのは、わたし一人だった。追い払うやり方は知らない。できたのは、点差を最後まで書き取ることだけだった。翌朝、駐車場の自販機は普通に動いていた。
二日で、連絡網から「ビールかけ」の語はほとんど消えた。泡の人は乾いて、白い粉になった。でも排水溝のふちには、雨のあとも白い輪が残っている。久米さんは家に帰った。よく笑い、よく食べる。奥さんの名前は言える。子どもの名前は言えない。チームの集合写真は、十四連敗のあいだの分から、捕手の場所だけが空いている。
アスファルトに貼りついた一枚は、真柴さんがはがして持ち帰った。今はノートの間に、押し葉のように挟んである。[余白の書き込み]基準標本は一つだけ。名前はその一枚に付く。だから久米さんの名前は、家にいる人じゃなくて、こっちに付いている。
返す前に、わたしはそのページを開いた。平たい一枚は、紙より少しあたたかかった。余白の一番下に、真柴さんのものではない字で、今朝の日付と「一対〇」が書き足されていた。彼女は、それを書いていないと言った。わたしはノートを返し、借用簿に判を一つ押した。
その日の鴇江は雨だった、と一度書いてから直す。雨だったのは隣の町で、ここは曇りのまま夜になった。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「コケコゴメグサ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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