一般常識と、最後の段ボール

一般常識と、最後の段ボール

語現体鴇江市一般常識記録

九月七日の夕方、市営住宅の四号棟に受理票を持って行った。届出人は三日前に入居した男性である。三十代だと言った。玄関には段ボールが十四箱あった。番号が油性ペンで書いてある。わたしは灯番号にT-20260907-02と書いた。

男性は鍵の引き渡しの日から順に片づけていた。台所の箱、寝具の箱、本の箱の順である。前の住人が置き土産を残していた。掃除用具と、大学ノートが一冊である。ノートには部屋の使い方が書いてあった。

わたしはノートを見せてもらった。廊下の配管を本流と支流に分けて図にしてある。支流のほうは冬に凍ると書いてある。台所の床に三ミリの段差があり、それを断層と呼んでいる。台車は断層で必ず引っかかる。だから廊下は水運に適さない、とある。水運という語は、この部屋の中でだけ通じる言い方だったのだろう。図は丁寧だった。線が定規で引いてある。

ノートの最後の頁に、一般常識、とだけ書いてあった。中身は書いていない。

男性はその頁を三日読んでいた。

九月に入ってから、市内における一般常識の使用が例年の四倍を超えている。四号棟の周辺ではもっと多い。使用の九割で、話し手は中身を言っていなかった。ここでは一般常識なので、という言い方で文が終わる。誰もその先を続けない。像はその形で揃った。一般常識は、みんなが知っていて言葉にできること、ではなくなった。誰も口に出さないから書かれていない決まり、のほうになった。中身を言える者がいないことが、そのまま条件になった。

男性は隣室に尋ねに行った。ここでの一般常識は何ですかと聞いた。相手は少し黙った。そういうことは聞くものではない、と言った。それが答えだった。管理人にも聞いた。管理人は、皆さんそうしています、と言った。何をそうしているのかは言わなかった。

その夜、最後の一箱が残った。番号は十四である。中身は男性が自分で詰めたはずだった。開けると、大学ノートと同じ大きさの紙が一枚入っていた。白紙である。紙の下に掃除用具が入っていた。前の住人の置き土産と同じものである。同じものが二つになった。男性は二つを並べて置いた。

それが出てからは、男性のやり方が一つずつ取り上げられた。靴を左に寄せて置くのをやめさせられた。ごみ袋の口を二度結ぶのをやめさせられた。窓を開ける順をやめさせられた。取り上げるとき、それは一般常識ではありません、とだけ聞こえる。誰の声かは分からない。姿はない。段ボールの十四番だけが、いつまでも空にならない。中身を出しても軽くならなかった。

三日目の夜、男性は説明を始めた。一般常識というのは、みんなが共有していて、口に出して説明できる知識のことです。辞書にもそう書いてあります。そう言うたびに、では中身を言ってください、という形の間が空いた。男性は中身を言おうとした。言おうとした時点で、その人はもう決まりの外にいる。

四日目に、わたしは支流の側の配管を見に行った。ノートの図のとおりの場所にあった。凍る季節ではないので何も起きていない。前の住人はこの部屋のことを、書けるだけ書いていた。書いていないのは最後の頁だけである。書かなかったのではないと思う。書けるなら書いた人である。

正しく分かっている人ほど、中身を尋ねてしまう。尋ねた人からやり方が減っていく。隣室の人は何も減らなかった。あの人は最初から中身を知らないままだった。管理人も減らなかった。減ったのは、説明できるはずだと思っていた人だけである。

わたしは尋ねなかった。何と呼ばれたいですか、とだけ聞いた。答えは受け取った。記録には残していない。

男性の話を朝まで聞いた。減らされたやり方を、覚えている順に全部書き出してもらった。書けるものは全部書けた。書けたのに、もう一度そうすることはできない。それでも書いた。書いたものはノートの空いている頁に挟んだ。四号棟の廊下は水運に適さないので、台車の音は誰にも聞こえなかった。

十日を過ぎたころから、四号棟で一般常識という語が使われなくなった。かわりに、この棟のやり方、という言い方が出てきた。使用が減るにつれ、取り上げの速さは落ちた。落ちただけである。十四番の箱は空にならない。紙も白いままである。断層は三ミリのままで、台車はいまも引っかかる。男性は靴を左に寄せなくなった。寄せない置き方のほうを、いまは自分のやり方だと言っている。

帰りに一階の集合ポストを見た。前の住人の名札が、まだ外されていない。名札の下にもう一枚、何も書かれていない札が差してある。あれにはまだ名前がない。雨が降っていた。降っていたのは、正しくは霧のような降り方だった。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「安寧河」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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