強制終了と、止まらない残圧

強制終了と、止まらない残圧

語現体鴇江市強制終了記録

水深零メートル、残圧百八十。市の水難救助講習は、貯水池の奥まった入り江で行われた。夕方の水面は薄い金色で、桟橋の影だけが藍に沈んでいる。わたしは記録のために立ち会った。白河も来た。

講師は最初に手信号を教えた。水の中では言葉が使えない。だから合図だけが言葉になる。親指を立てれば浮上、指で丸を作れば異常なし。この二つを取り違えないでください、と講師は言った。灰色のウェットスーツが並び、その背中に西日が白く乗った。

水深三メートル、残圧百六十。その日、受講者の口から同じ語が何度も出た。強制終了である。潜る前の点呼で、誰かが言った。仕事を強制終了してきました、と。笑いが起きた。以後、講習のあいだじゅう、その語は使われ続けた。

受講者たちは、この語を、外から終わりにすれば中身も終わったことになる、という意味で使っていた。本当は違う。強制終了とは、途中のものを保存せずに切る操作である。中身は終わらない。失われるだけである。だが入り江のまわりで揃った像は、前者のほうだった。

早瀬の統計はその夜に出た。市内での使用が先週の五倍を超えている。ある催しが予定より早く打ち切られた話が広まった週だという。ただし使用の七割で、話し手はその話をしていない。自分の一日を切る言い方として使っている。グラフの端には、いつもの細かい揺れが乗っていた。理由は書かれていない。毎回乗っているので、誰も書かなくなった。

水深五メートル、残圧九十。二本目のあと、規則どおりの停止をとる。三分間、そこに留まって待つ。動かずに待つ時間は、水の中で一番長い。透明度は高く、水は青緑で、上のほうだけが金に光っていた。

その三分のあいだに、それは出た。

先に上がった受講者が、桟橋で親指を立てた。終わりました、という意味で立てたのだと本人は言った。水中の三人は、それを浮上の合図として読んだ。二つの合図は同じ形をしている。取り違えは、その場では誰にも見えなかった。

上がった三人の残圧計を、講師が順に確認した。数字が減っていた。水から出ているのに、減っていた。指の下で目盛りが動くのが見える。講師は計器の故障を疑い、三本とも交換した。交換したものも減った。減り方は、水深五メートルで待っているときと同じ速さだった。

本人たちは何ともない。息をしている。寒くもないと言う。ただ、上がった記憶がないと言った。上がったことになっているのは知っている、と言い直した。三人が三人とも、同じ順番で言い直した。誰も相談していない。

水深五メートル、残圧四十。わたしは桟橋の先まで歩いた。入り江の口には、細い半島が伸びている。地図では岬とだけ書かれていて、名前がない。地元の人はただ「先」と呼ぶ。呼び名がないので、そこで起きたことは、どこで起きたと書けばいいのか分からなくなる。

翌日、市の職員が一人来た。正しく知っている人だった。

職員「あの、強制終了というのは、保存されないという意味でして」

受講者「はい」

職員「終わったことにはならないんです。途中のものは、そのまま失われるだけで」

受講者「では、終わりということですね」

職員「いえ、終わりではなく——」

受講者「終わりました」

その日から、職員も桟橋に立っていた。器材は着けていない。着けずに、上がるときの動作だけを繰り返していた。正しい説明をした者から順に、終わったことにされていく。誰も彼を止めなかった。止めるという動作もまた、外から切ることだったからである。

白河が、あれに名前をつけましょうか、と言った。名前という語が出たあとに、いつも同じことが起きる。半島の先に、いつのまにか子どもが一人立っていた。灰色の水を背にして、こちらを見ていた。命名という手続きは、輪郭を決めることである。輪郭を決めれば、そこで終わる。わたしは白河の手帳を閉じさせた。

水深五メートル、残圧十。わたしは水に入り、停止の深さまで降りた。青緑の層の下に、水温の変わる境がある。境の下は暗い。そこに、それはいた。姿はない。ただ、止まっていないものの気配だけが、はっきりとあった。

わたしは尋ねた。何と呼ばれたいですか。

答えは返った。記録はしない。

対処はしていない。記録しただけである。講習は三日目で打ち切られた。名簿の上では、上がった人数より、上がっていない人数のほうが多い。空気の量は合っている。数えると合う。合うのに、桟橋には器材が三組多く残った。残ったぶんは、末広町の廃商店街の物置に移された。この商店街は、無関係な語現体の記録にも何度も出てくる。今回もここに来た。理由は分からない。

余白。市の備品台帳の最後の行に、まだ辞書に載っていない語で書かれた品名が一つある。誰も発注していない。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「オーガスタス島」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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