求愛行動と、断り切れない鍋
聞き取りは末広町の集会所で行った。座談会の形にしたのは白河の提案である。三人以上で話してもらったほうが、語の使われ方が出る、と言った。それはわたしがいつか記録に書いた文である。白河はそのまま使った。わたしは訂正しなかった。
白河「では始めます。最近よくお使いになる言葉について——」
戸倉「求愛行動でしょう。あれね」
青柳「そうそう、求愛行動。うちの前の道で毎朝——」
峰岸「毎朝ですよ。鍋を持って立っておられる」
戸倉「立っておられるだけ。無理には言わない。よい方ですよ」
青柳「よい方です。断るのが悪いみたいで」
峰岸「悪くないですよ。うちも一度いただきました。銅の取っ手の、重たい鍋で」
戸倉「あれは重たい。持ってこられるほうが大変です」
白河「どなたが、とは伺いません。差し出すほうの話を——」
青柳「求愛行動というのはね、要するに、受け取られるまで同じことをするんです」
峰岸「そう。受け取られるまで」
戸倉「動物の番組でやっていたでしょう。あれと同じ」
三人は同時に話していた。誰も相手の話の終わりまで聞いていない。それでも話は進む。求愛行動という語が出るたび、三人の顔が同じ向きに動いた。像が揃うというのは、こういう動き方をいう。
わたしは念のため、動物の話をしている人がいるかを尋ねた。三人とも、動物の話でもありますよ、と答えた。答えたあとで、でも普通は鍋のほうですね、と言い直した。三人が三人とも同じ順番で言い直した。誰も相談していない。
早瀬の統計はその日の午後に出た。市内での「求愛行動」の使用が、先週の四倍を超えている。動物番組の再放送が二度重なった週だという。ただし使用の八割で、話し手は動物の話をしていない。近所づきあいの反復を指して使っている。グラフには、いつもの細かい揺れが乗っていた。理由は書かれていない。毎回乗っているので、誰も書かなくなった。
その揺れの幅は、去年の記録に載っている単位のままでは読めない。早瀬は換算せずにそのまま出す。読み方はこちらで合わせてくれ、と言う。合わせるほうが早い。
二日目の座談会には、鍋を持ってくる側の人も来た。名前は書かない。
白河「今日はお越しいただいて」
本人「いえ。こちらこそ。皆さんによくしていただいて」
青柳「よくなんて。いただくばかりで」
戸倉「いただくばかりですよ、こちらは」
本人「置いていくだけですから。受け取っていただかなくても」
峰岸「受け取りましたよ。ちゃんと」
本人「そうでしたか。よかった」
青柳「よかったです」
戸倉「よかったですね」
わたしは、いつ断ったかを三人に別々に尋ねた。三人とも、断った日のことは思い出せないと言った。受け取った日のことは全員が言えた。同じ日である。
町会の境の話が出たのは、その流れである。峰岸さんが、この道から先は隣の町会で、国境みたいなものでね、と言った。境の向こうでは、この語の使い方が違う。動物の話にしか使わないという。だから鍋も来ない。来ないので、断る必要もない。
戸倉「昔はこのあたりが流通の中心でね。荷はみんなここを通った」
青柳「こちらは標高が低いから、水がこっちに集まるんです」
戸倉「水も、いただき物も」
峰岸「集まりますねえ」
三日目に、市の職員が一人来た。正しく知っている人だった。
職員「あの、求愛行動というのは本来、動物が——」
戸倉「はい」
職員「人の親切を指す語ではありませんので、その、誤解を解いていただければと」
青柳「ご親切に」
峰岸「わざわざ来てくださって」
職員「いえ、これは説明であって、差し出しでは」
戸倉「いただきます」
翌朝から、その職員も道に立っていた。手には何も持っていない。持っていないものを差し出す動作だけを、正しい説明の形で繰り返していた。誰も断れなかった。
白河は職員の名を控えようとした。わたしは止めた。名は語である。控えたものが増えると、増えたぶんだけ使われる。白河は手帳を閉じ、控えないほうがいいですね、と言った。それもわたしの書いた文である。
わたしは差し出された手のほうを見ていた。手の輪郭が、少しだけ長い。差し出す動作は終わる。受け取る動作も終わる。断るという動作だけが、途中で止まっている。止まったところに、それはいた。
ほかの職員は目を逸らしていた。逸らすのは仕事の一部である。誰も悪くない。悪くないまま、道に立つ人が一人増えた。
わたしは尋ねた。何と呼ばれたいですか。
答えは返った。記録はしない。
四日目、鍋は道から消えた。消えた理由は分からない。使用が落ちたわけではない。落ちるのは半ばの見込みで、まだ半ばではない。持ち帰られた鍋の数は、持ってこられた数と合っている。合っているのに、三軒とも台所の場所が足りないと言った。物は増えていない。数えると合う。
対処はしていない。記録しただけである。廃商店街の一角に、断りきれなかったぶんが沈んだと思われる。この商店街は、無関係な語現体の記録にも何度も出てくる。今回もここに来た。理由は分からない。
戸倉さんは最後にこう言った。よい方だったんですよ、と。過去の形で言った。誰も訂正しなかった。
余白。集会所の裏に、まだ名前のついていない道具が一つ置かれている。誰の物でもない。
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