金木犀と、終わったことになる部屋
九月十八日の朝、末広町の集会所に受理票を持って行った。届出人は自治会の書記の女性で、五十代である。二階の会議室に通された。わたしは灯番号にT-20260918-01と書いた。
部屋には四人いた。書記と、会計と、班長が二人である。わたしを入れて五人になった。書記が扉を閉めて、内側から鍵をかけた。開けておくと匂いが逃げてしまう、と彼女は言った。逃がしてはいけないのですか、と訊いた。逃げた先で同じことが起こる、と彼女は答えた。
班長のうち年上のほうは、最初から最後までひとことも話さなかった。座って、机の木目を見ていた。書記が言うには、この人は八月から何も決めていない。決めようとすると、もう決まっている気がしてくるのだという。
換気扇が回っていた。低い音が、ずっと同じ調子で続いていた。止めないのですか、と訊いた。止めると匂いが濃くなる、と書記は言った。回していても薄くはならない。ただ、濃くならない。
壁の時計は九時十二分を指していた。長机がひとつ、椅子が六脚あった。窓は南向きで、外の樹はここからは見えない。
匂いはした。甘くて、少し粉っぽい。金木犀である。窓は閉まっていた。
書記が説明した。この町では八月の終わりごろから、金木犀という語の使われ方が変わった。花が咲いたね、という意味ではなくなった。もう金木犀だね、と言うとき、人々は、間に合わなかった、という意味で言っていた。
もっともな話ではある。金木犀の匂いに気づくのは、たいてい花が散りはじめてからである。気づいた時点で、いちばんよかった数日はもう過ぎている。だからこの語は、終わりを告げる匂いとして揃った。
書記は、回覧板の文面を見せてくれた。八月の終わりごろのものである。夏祭りの片付けについて書いてあって、最後に一行、もう金木犀ですね、とあった。祭りは無事に終わっている。それでも、間に合わなかったほうの意味で読める書き方だった。読んだ人のほとんどがそちらで読んだ。
会計の男性が口を開いた。彼は植木の仕事をしていた。金木犀は散る前から匂うんですよ、と彼は言った。気づくのが遅いだけで、匂い自体は最初からある。だから終わりの匂いではない。
正しい。正しいが、それを言えるのは彼だけだった。彼が正しく知っているぶん、彼の言葉は四人ぶんの像に届かなかった。
匂いは床のほうが濃かった。しゃがむと強くなり、立つと薄くなる。管理局はこの広がりを体盤と呼ぶ。平たく、薄く、床に沿って広がる。厚みはほとんどない。
体盤の内側に入ったものは、まだ途中でも、終わったことになる。壊れるわけではない。倒れるわけでもない。ただ、続けられなくなる。
わたしは床に紙を置いて、端から順に広がりを測った。机の脚のあたりで一度切れて、その先でまた続いていた。切れているように見えるだけで、つながっている。
班長のひとりが、議事録を机に置いた。九月の議題が三つ書いてある。二つには結論が入っていた。三つめは空欄のままだった。
これは決まっていないのですか、と訊いた。決まっていない、と班長は言った。でも、続きが書けない。
彼は鉛筆を持って、空欄に字を書こうとした。手は動いた。紙に触れる直前で止まった。痛くはないんです、と彼は言った。ただ、終わったものを書き足す気にならない。
体盤の縁は細く尖っている。管理局はそこを毒の棘と呼ぶ。触れたものは、終わったことにされたという自覚だけを持ったまま残る。班長の手はそこに触れていた。
わたしは椅子を数えた。六脚ある。人は五人である。書記も同じように数えていた。彼女は七脚だと言った。会計の男性も数えた。彼も七脚だと言った。
二度数えた。わたしには六脚に見えた。
ここで分かったことがある。この部屋の匂いは、ひとつではなかった。金木犀という同じ名前で長いあいだ数えられていたが、中身は二つあった。咲いていることを知らせるほうと、終わったことにするほうである。
似ているので、誰も分けなかった。管理局はこういうものを隠蔽種と呼ぶ。見分ける手だてが見つかるまで、二つはずっと一種として数えられる。数えかたを間違えていた期間の長さは、あとから数えるしかない。
椅子の数が人によって違うのは、そのためだった。終わったことにするほうを吸った者は、一脚多く数える。多いほうの椅子には誰も座っていない。座っていない椅子を数に入れてしまう、という言い方のほうが近い。
会計の男性が黙った。正しく知っていた彼が、いちばん長く椅子を数えていた。
わたしは書記に尋ねた。何と呼ばれたいですか。彼女は少し考えて、答えた。わたしは記録しなかった。
収束の見込みを訊かれた。花が散って言及が減れば、体盤は広がるのをやめる、と答えた。予測です、と付け足した。
止められるのですか、と会計の男性が訊いた。止められません、と答えた。第四課にできるのは、記録して、看取ることだけである。隠すのは得意だが、防ぐ手だては持っていない。
彼はしばらく黙ってから、では正しいことを言っても意味がないのか、と訊いた。意味はあります、と答えた。ただ、像は多数決で決まる。正しさは頭数に入らない。
匂いは薄くなっていった。床の板目のあいだに、沈んでいくように見えた。消えたのではない。この部屋に残る。次に誰かが扉を閉めれば、また同じ濃さになる。
最後まで見ていたのは、わたしだけだった。四人は目を伏せていた。
扉の鍵を開けたのは十時ちょうどである。換気扇はまだ回っていた。議事録の三つめは、空欄のままにしておいた。
窓の外で、郵便配達の自転車が止まらずに通り過ぎた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「アカエイ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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