混ぜるほど積もる

混ぜるほど積もる

語現体鴇江市納豆パスタ記録

九月二十日の夜、わたしは末広商店街の空き店舗にいた。灯番号はT-20260920-02である。雨は降っていない。いや、訂正する。昼のうちに一度降った。夜には上がっていた。

床から〇センチ。

最初の通報は、閉じた製麺所の二階からだった。床に薄く糸が張っている、と下の階の住人が言った。触ると指に絡む。掃いても、翌朝には同じだけ戻っている。わたしは物差しを床に立てた。目盛りは読めなかった。糸が細すぎて、厚みにならなかったからである。窓の下の街路樹を見た。樹皮の隙間に、白い筋が一本だけ入っていた。

床から二センチ。

三日後、同じ部屋に入った。今度は物差しが立った。糸は白くて、乾いていて、軽い。床を掻くと、乾いた、さらさらとした音がした。掻いた分は袋に入れた。袋の重さは変わらなかった。部屋の空気の重さも変わらなかった。念のためもう一度量った。重さは変わらなかった。

局の集計を見た。九月七日から十九日までの十三日間で、市内の「納豆パスタ」の使用が前年同期の十一倍になっていた。作り方の短い投稿が続けて流れたためである。問題は回数の書き方だった。投稿の八割が同じ言い方をしていた。混ぜるほどよくなる。

この言い方は、読んだ人に一つの絵を見せる。混ぜた回数だけ、よいものが増えていく絵である。料理の話としては、混ぜるのは粒をほぐして絡みをよくするためで、増やすためではない。だが像のほうは、増える、で揃ってしまった。増えるのが味なのか量なのかは、誰も書いていなかった。書かれていない部分は、読んだ人が勝手に埋める。埋め方が同じだと、輪郭が早く決まる。

食品の研究をしている人が、この部屋に来たことがある。彼は正しいことを言った。納豆は、ある回数まで混ぜると粘りが増える。それ以上はほとんど変わらない。混ぜるほどよくなる、というのは言い過ぎである。彼はそう説明した。説明しているあいだ、糸は一本も減らなかった。像を持っているのは彼ではなく、書いた人たちのほうだからである。彼はいちばん正しくて、いちばん何もできなかった。

床から四センチ。

糸の底に、それはいた。細くて、体を折り曲げた幼虫の形だった。街路樹の樹皮の隙間にいたものが、そのまま降りてきたように見えた。わたしは名前を尋ねなかった。先に尋ねることが一つある。何と呼ばれたいですか。返事はなかった。記録もしない。これは毎回そうしている。

床から五センチ。

その夜、窓の外が見えなくなった。糸が窓の内側だけを埋めていた。外から見た人は、窓には何も付いていないと言った。見えないのは内側からだけである。同じ夜、それは形を変えた。完全変態である。前の形と後の形は似ていない。折れた体はほどけて、平たく広がった。似ていないので、誰も同じ一体だとは思わない。増えたのは糸だけで、本体は増えていない。

わたしは窓を内側から囲った。板を当てて、隙間を紙で塞いだ。除くためではない。糸が廊下へ出ないようにするためである。掻くのは毎日続けた。掻いても減らないが、掻かないと増える速さが上がる。わたしたちにできるのは、その差を作ることだけである。

掻く作業には順番がある。先に壁ぎわを掻き、次に部屋の真ん中を掻く。逆にすると、掻いたそばから壁ぎわの分が戻ってくる。理由は分かっていない。分かっていないが、順番を守ると一日ぶんだけ遅くなる。第四課の作業手順には、この順番だけが書いてある。理由の欄は空いている。

底のほうには、掻いても取れない層があった。古い糸である。白ではなく、灰色に近い。指で押すと固い。あとで分かったことだが、この層は最初の三日でできていた。上に積もった新しい糸がずっと軽いので、下の固さに誰も気づかない。気づいたときには、物差しの下の何センチかは最初から動かない分だった。

床から三センチ。

二十六日、糸が緩んだ。張っていたものが、先のほうからほどけ始めた。雪が解けるのに似ていた。投稿の勢いが落ちたからである。像を持つ人が減れば、輪郭は保てない。

落ちた理由は単純だった。別の作り方が流れ始めて、そちらの言い方が「混ぜなくていい」だった。反対の言い方が同じ数だけ並ぶと、像は二つに割れる。割れた像は実体を保てない。正しいほうが勝ったのではない。数が割れただけである。わたしはそれを報告書にそう書いた。正しいほうが勝ったのではない、と書いた。白河さんはその一文を読んで、しばらく黙っていた。

床から〇センチ。

最後の夜、わたしは部屋に一人でいた。桐生さんは廊下で待っていた。早瀬さんは階段の下にいた。二人とも目を逸らしていた。それは床の真ん中で平たくなって、端から薄くなった。わたしは最後まで見ていた。いつもそうしている。消えるところを見ていないと、記録に書けないからである。書けないものは、無かったことになる。

袋は最後まで軽いままだった。掻いた分はどこにも積まれなかった。どこへ行ったのかは分からない。分からないので、そう書く。

(余白)

雨は降っていなかった。いや、訂正する。あの夜は霧だった。廃商店街の突き当たりに、誰も点けていない灯りが一つある。まだ名前がない。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ラクダムシ目」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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