苗字の日と、揃ってしまう預かり札
「先生、うちの子、苗字が変わってしまったんです」
九月十九日の午前、待合の長椅子でその人はそう言った。六十代の女性である。膝に空のキャリーを置いていた。中身は預かりのまま、奥の部屋にいる。わたしは受理票を開いて、灯番号にT-20260919-01と書いた。
院長は五十代の男性だった。診察室に通されると、彼はまず消毒の話をした。手はよく洗うこと。アルコールは万能ではなく、芽胞にまでは届かないこと。散歩道の土壌には、拭いても落ちない相手がいること。傷に薬を垂らすと泡が立つのは、カタラーゼという酵素が働いているからで、泡は治っている証拠ではないこと。彼は言葉を選ぶ人だった。わたしは口をはさまなかった。
本題は預かり札だった。この病院では、預かった子の首輪に紙の札を付ける。札には二段ある。上が苗字、下が呼び名である。上は飼い主の苗字を書く。下はその家で呼んでいる名前を書く。それだけの紙である。
九月に入ってから、この市では苗字の日の話が回っていた。九月十九日を苗字の日と呼ぶのは、明治三年のこの日に平民苗字許可令が出たからである。許可令であって、決定ではない。名乗ってよい、と許された日である。院長はそれを正しく知っていた。
けれど待合で交わされていたのは、別の言い方だった。今日は苗字の日だから、この子にも苗字をつけてあげよう。うちの子はまだ苗字が決まっていない。前の家の苗字のままなのはかわいそうだ。許された日ではなく、決まる日として使われていた。市内でその言い回しが増えたのは、九月十三日ごろからである。
最初に気づいたのは、午後の迎えの時間だった。
診察台の上に、預かりの子を乗せる。飼い主が名前を呼ぶ。そこで札を外して渡す。いつもの手順である。ところがその日、外した札の上の段が、迎えに来た人の苗字ではなかった。下の段の呼び名は合っている。上だけが違う。しかも違い方が揃っていた。その日の待合で最も多く呼ばれた苗字に、全部が寄っていた。
院長は札を書き直した。翌朝、また同じ苗字に戻っていた。紙を新しいものに替えても、台帳の側を直しても、預かりから診察台へ出た時点で揃った。体重の欄は動かない。呼び名も動かない。上の段だけである。
札を見せてもらった。上の段の字は、書き直した院長の字ではなかった。かといって、誰の字でもない。印刷でもない。太さの揃った、手本のような字である。彼はその字を三度写し取って比べていた。三枚とも同じ形だった。人が三度書けば、三度とも少し違う。そうならないものを、わたしたちは字とは呼ばない。
彼は飼い主にこう説明していた。札の上の段は、この家のものだという印です。今それが別の家の印になっています。原因はわかりません。直しても戻ります。元の苗字を覚えているのはあなたです。だからあなたが呼び続けてください。わたしにはそれしか言えません。
説明としては正しい。正しいから、何も止まらなかった。
彼は自分の家の苗字を札に書き足さなかった。許可の日であって決定の日ではないと知っている以上、他人の家の子に苗字を与える立場にないと考えたからである。理屈は通っている。結果として、彼が預かった子の札の上の段は空欄のまま診察台に上がった。空欄には、待合の多数派が入った。正しさは空欄を作り、空欄は埋められた。
待合には、その日の呼び出しの記録が残っていた。午前の呼び出しは十一件。そのうち四件が同じ苗字である。市内に多い苗字だった。揃った先は、いつもその日の最多と一致した。多数派が正しいのではない。多く呼ばれただけである。けれど札は、多く呼ばれたほうへ寄った。
早瀬なら数字にしただろう。九月十三日から十九日までの六日間で、市内における苗字の日の使用は例年の四倍を超えた。そのうち八割で、話し手は許可の話をしていない。決まる、つける、もらう。動詞のほうが先に揃った。字義とのずれが、像を決定の側へ寄せた。二十三日以降に言及が減れば、札の揃う速さは落ちると予測されている。予測であって、確認ではない。
わたしは語現体に、何と呼ばれたいですかと尋ねた。姿はない。診察台と預かり札のあいだにだけある。答えはなかった。答えがないことを、わたしは記録しない。
揃った苗字は戻らなかった。書き直せば一日はもつ。もたせ続けているのは院長で、彼はそれを治療とは呼ばない。預かっているだけです、と言った。迎えが来るまでのあいだ、上の段を毎朝書くのが仕事になりました、とも言った。わたしはそれを止める言葉を持っていない。持っていないことは、この記録には書かない。
院長は、札の制度をやめないと言った。やめれば揃わなくなるかもしれない。けれど上の段が無くなれば、この家のものだという印も無くなる。印が無いまま預かるほうが怖い、と彼は言った。わたしはそれに反対しない。反対する材料を持っていない。
その人が最後に言ったのは、こうである。この子の苗字が誰のものでもよくなったら、この子は誰の子でもなくなるんでしょうか。わたしは答えなかった。答えられなかったのではない。答えないほうがましだと思った。
末広町の理髪店は、九月のあいだ日曜も開けている。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「枯草菌」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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