ペンギンと、名前のない海峡
九月八日深夜、鴇江市青柳町のコミュニティ放送局から受理の照会があった。届出は同局の編成担当で、整理番号はT-20260908-02とした。これは後任の読み手のための記述である。局が何をしたかではなく、何ができなかったかを残す。あなたは、これを対策の手引きとして読まないでほしい。
その局は毎晩、午前二時から一時間だけ生放送をしている。聞いているのは眠らない人だけだ。九月三日からの六日間で、市内の会話における「ペンギン」の使用は例年の七倍を超えた(第四課使用頻度集計・九月八日午前四時締め)。きっかけは番組に届いた一通のはがきである。語そのものは古い。飛べない海鳥を指す、ただの普通名詞だ。正しい意味では、その鳥は南の海にいる。
ところが受理台帳の附票を見ると、市内の使用の八割で、話し手は南の海の話をしていなかった。北の氷の上に、白い獣と並んで立っている。そういう言い方である。番組に届いた投稿の多くも同じだった。氷河を見た、その手前に並んでいた、と書いてある。はがきの一枚には、寒い場所はみんな同じ顔をしている、と書いてあった。だれもそれを間違いだと思っていない。共有されたのはこの像であって、図鑑のほうではない。語が実体を得るとき参照されるのは、いつも後者ではなく前者である。
受理の手続きそのものは退屈なものだ。照会票に受理日時を書く。届出人の所属を書く。附図の枚数を書く。判は二か所に押す。わたしはこの手続きが済むまで、スタジオのガラスを覗かなかった。順番を守ることになっているからだ。手続きを先に済ませておけば、見たものを後から疑わずに済む。守ったところで、見えるものは変わらない。
局の裏手には、埋め立てで残った細い水路がある。地元では海峡と呼ぶ。名前ではなく、通称だ。午前二時四十分、その岸に列があった。ガラス越しに見ると、背の高さの揃った黒い形が、水路に沿って並んでいる。端は見えない。数えようとすると、数え終わる前に一つ増える。氷はない。九月の鴇江市に氷はない。それなのに、窓の内側だけが白く曇っていた。
編成担当の隣に、市の水族館から来ていた飼育の人がいた。その人は、あの鳥は南の海にしかいないと言った。正しい。言った瞬間、列が一つ増えた。彼女はもう一度、今度はゆっくり言い直した。また一つ増えた。三度目は言わなかった。目を逸らしたのだ。正しさは、この列に対しては入力でしかない。あなたなら、二度目を言わずにいられただろうか。
わたしは退治しない。聞くだけだ。マイクを一本、窓の外へ向けてもらった。音は入らなかった。かわりに卓のメーターだけが動いた。針の揺れが、岸の形をなぞっている。細く深く切れ込んだ入り江の形である。投稿者の一人はそれをフィヨルドと書いていた。写真で見ただけの言葉だ。わたしは列に向かって、いつもの質問をした。何と呼ばれたいですか。答えは記録しない。記録しないことになっている。針は三十秒ほど揺れて、それきり動かなくなった。
番組は曲を一曲流した。そのあいだ、編成担当はずっと卓を見ていた。あなたに伝えたいのは、この一曲のあいだに彼が何をしたかではない。何もできなかった、ということのほうだ。局にできたのは、放送を続けることだけだった。声が途切れると、列は少し前に出る。曲が終わり、彼がまた喋りはじめると、列は止まった。
午前三時、番組が終わった。電波が止まると、列は薄くなった。消えたのではない。水路の岸に、背の高さのぶんだけ、草の倒れた跡が残っている。翌日の昼、その跡は乾いていた。乾いていたが、消えてはいなかった。放送を一日休む案が局から出ている。休めば言及は減るだろう。減るだけで、跡が戻るという根拠はない。延命であって、除去ではない。局は防げない。書けるのはここまでである。
照合できたことを書く。市内の使用が例年の水準に戻った日と、跡の乾いた日は一致した。照合できなかったことも書く。跡の数は、その夜に届いた投稿の数といつ数えても一つ多い。多い一つには、差出人の欄がない。それから、針がなぞった入り江の形は、鴇江市のどの海図にも無い。氷河のある土地の形だと、飼育の人は言った。言ってから、自分でもなぜそう思ったのか分からない、と付け足した。
写しは第四課に所蔵した(整理番号T-20260908-02・附図三葉)。あなたが後任としてこれを読むころ、あの水路の名前はまだ決まっていないはずである。海峡というのは通称であって、正式にはまだ名前がない。
帰り道、局の駐車場の街灯が、昨日より一つ多く点いていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「エルズミア島」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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