多雨疲労と、数の合わない解説板
九月八日、鴇江市末広町の市営水族館から受理の照会があった。届出は同館飼育課の主任で、整理番号はT-20260908-01とした。以下は後任の読み手のための記述であり、対策の記録ではない。局が何をしたかではなく、何ができなかったかを残す。
今週は一日を除いて雨が続いた。市内の会話における「多雨疲労」の使用は、九月二日からの六日間で例年の五倍を超えている(第四課使用頻度集計・九月八日午前六時締め)。語そのものは今週の放送で広まったもので、雨と湿度と気圧の続く日に体がだるくなる状態を指す。正式名称としての意味はそれで正しい。医学の用語ではなく、生活の用語である。
ところが受理台帳の附票(整理番号T-20260906-02)を見ると、市内の使用の八割で、話し手は自分の体の話をしていなかった。今週はもう六日ぶんある、という言い方である。数えられるのは自分の中身ではなく、外にある日数のほうだった。疲れは体の内側で起きるのではなく、雨の日が一日ずつ外から足されていく。共有されたのはこの像であり、辞書のほうではない。語が実体を得るときに参照されるのは、いつも後者ではなく前者である。
当該館の順路は、入口の潮だまりから始まり、北方の海を集めた区画を経て、最後に大水槽へ出る一本道の構造になっている。異状は大水槽の前の解説板で起きた。板には給餌時間が三行、掲示されていたはずである。九月七日の閉館前、その下に四行目が増えていた。日数を数えた数字である。翌朝には五行目があった。増えた行は消せない。上から貼った紙は翌日には剥がれていた(同館・掲示物管理簿、九月八日照会分)。
当該館の解説板は、開館時に一括で製作された板を今も使っている(同館・備品台帳、昭和五十年度受入分)。給餌時間は季節ごとに手で書き替える運用で、書き替えの権限は飼育課に限られる。増えた四行目以降について、飼育課は誰も書いていないと述べた。筆跡は既存の三行と一致する。板の裏面には製作時の照会番号が残っており、写しを取って照合したが、行数に関する記載はない。
順路を進むあいだ、来館者に自覚はない。足が止まるのは大水槽の前だけである。止まった者は一様に、自分が数えられている、と述べた(証言六件・第四課聞取記録一〇三号)。数えられた者は、その日のぶんだけでなく、まだ来ていない日のぶんまで疲れていると訴える。館内でこの現象が出るのは大水槽の前に限られ、ほかの区画では一件も起きていない。語現体はそこを離れない。水音の絶えない場所が本拠地である。姿はない。行だけが増える。
同様の照会が市内で他に二件ある。いずれも水音の続く場所で、末広町の廃商店街に残る貯水槽と、北方の谷にある浄水施設の見学通路である(受理番号T-20260907-03、同T-20260908-02)。どちらも掲示物を持つ点で共通する。掲示物のない場所からの照会は一件もない。数える対象がなければ現れない、という言い方が第四課ではされているが、確認された規則ではない。
わたしは主任に、あなたは何と呼ばれたいですかと尋ねた。主任は質問には答えず、これは自分の体の反応であって雨のせいではない、と述べた。気圧と湿度に対する自律神経の反応であり、外から足されるものではない、と。それは正しい。統計官の早瀬が九月八日午前に出した収束予測(予測書番号九〇八の四)も、主任の説明と矛盾しない。
そして、館内でもっとも早く行が増えたのは主任だった。理由は記録の側からも言える。外から来ていないと理解している者は、外を避けることができない。避ける先を持たないので、数え続けるほかない。正しく理解している者ほど無力である、という文は局が三十年書き続けてきたものであり、今回もそのとおりに書くことになった。
九月八日、閉館後の消灯に立ち会った。順路の照明は入口側から順に落ち、大水槽の照明だけが最後に残る。残っているあいだ、板の行は読めた。消えたあと、板は暗いままだった。行が増えるのは灯が点いているあいだだけである。閉館時間を一時間早める案が同館から出ているが、行そのものが減るという根拠はない。延命であって、除去ではない。局は防げない。書けるのはここまでである。
板の写しは第四課に所蔵した(整理番号T-20260908-01・附図二葉)。あなたが後任としてこれを読むころ、行はまだ増えているはずである。数字は市内の雨天日数と一致しない。いつ照合しても、板のほうが一つ多い。その一つには日付が書かれていない。
最後に一つだけ書いておく。写しを取るために大水槽のガラスに手をついたとき、閉館後で水温の下がったはずのその面が、手のひらの幅だけ、ぬるかった。手を離しても、しばらく水音だけが続いていた。
今日は一日じゅう雨だったと書いたが、正しくは、朝のうちだけ止んでいた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「オスロ空港」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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