食欲の秋と、引き直される線
九月十一日の夕方、末広町の集合住宅に受理票を持って行った。届出人は三十代の男性である。玄関に入ると、水の音が低く鳴っていた。わたしは灯番号にT-20260911-02と書いた。
部屋の壁一面が水槽だった。彼は十二年、海の小さな生き物を飼っている。指した先に、細い枝のようなものが広がっていた。彼はそれを群体と呼んだ。一匹ではなく、一つでもない。根のように這う部分をヒドロ根と言い、そこから立った茎の先に、小さなコップの形をした部屋が並ぶ。それをヒドロ莢と言うのだと彼は説明した。どこからが一匹かという問いは、この生き物には初めから無いのだと言った。
彼は落ち着いていた。わたしは相槌だけを打った。
九月に入ってから、この辺りで食欲の秋という言い方をよく聞くようになりました。最初は普通の意味です。秋になると腹が減る、それだけのことでしょう。ところが、だんだん使い方がずれてきたんです。よく食べる人を見て、あの人は食欲の秋だね、と言う。褒めているのではありません。あちら側に近い、という意味で言うんです。秋のほうに食欲がある、と読んだ人が多かったのだと思います。食欲を持っているのは人ではなく秋のほうで、秋に食べさせられている人は、もう半分は人ではない。そういう像で揃ってしまいました。恐らく、音の並びが良すぎたのです。八日前から、うちの廊下に足跡が出るようになりました。
彼は一度言葉を切り、それから続けた。
裸足の足跡です。玄関から水槽の前まで、まっすぐ来ています。指が五本あるので人の形です。ただ、先のところに爪痕が残るんです。板に食い込んでいます。数えました。初日は四つでした。翌日は五つ。今日で十二あります。増えるのに、減りません。消えた跡が一つも無いんです。それから、わたしの足のサイズと合っています。
同じ夜、わたしは廊下を見た。足跡は十二あった。爪痕の深さは一定ではなく、日ごとに深くなっていた。彼は月の形を控えていた。深さが月齢と揃っている、と彼は言った。揃っていたのは事実である。ただ、彼はそれを説明として使わなかった。分かっている人ほど、分かったことを理由にしない。
翌朝、早瀬の集計が届いた。九月三日からの八日間で、市内における食欲の秋という語の使用が例年の七倍を超えていた。そのうちの八割で、話し手は季節の話をしていなかった。人の食べ方を評する言い方として使っていた。字義と像がずれた分だけ、像は像のほうへ寄る。寄った先が、線の引き直しだった。どこからが人か。その線が、食べ方という一点で引かれ直したに過ぎない。十七日以降に言及が減れば足跡の増加は止まる、と予測が付いていた。予測であって、確認ではない。グラフの下端には、いつもの微小な揺れが乗っていた。
昼過ぎに、わたしは廊下に立った。姿は無い。人が誰かの食べ方を口にした場所にだけ、それは残る。残るのは足跡と爪痕だけで、体そのものは一度も観測されていない。線の内側に居るのか外側に居るのかを決められないので、そもそも数えられない。群体と同じである。一つでも一匹でもないものを、局は一体と数える。無理があると言ってよい。
昼のうちに、何と呼ばれたいですかと尋ねた。返事はなかった。返事の代わりに、廊下の一番奥に十三番目の足跡がついた。わたしは規定どおり、答えを記録しなかった。
夕方、白河が測りに来た。彼は爪痕の型を取り、体重の推定値を出した。値は人のそれと変わらない。爪が板に食い込む深さからは、その何倍かの荷重が要る。白河は計算をやり直し、それからやめた。数字が誤っているのではない。数字の置かれる場所が変わってしまっている。わたしはそう書いた。
止める方法は無い。方法という語が、この件には初めから当てはまらない。できることは三つに過ぎない。増える速さを測ること。足跡の位置をすべて記録すること。そして、自分の足のサイズと合っていると知っている人のそばに居ること。三つとも、終わらせるための行為ではない。
局にできるのは隠すことだけである。この件も市民には知らせない。知らせれば人が語る。語れば像が濃くなる。濃くなれば、次に線を引き直される人が増える。防げないのに広げることはできる。その一点で、局は今日も無力だった。
帰り際、彼は水槽の前で言った。この子たちは、どこからが一匹かという問いに答えないまま、何年も生きています。わたしはその一文を受理票にそのまま書き写した。書き写してから、自分がなぜそれを残したのかを考え、考えるのをやめた。
夜、階段の踊り場に明かりが一つ増えていた。前に通ったときには無かったと思う。思う、というだけである。今日は一日じゅう曇りだった。いや、夕方の少しのあいだだけ、晴れていた。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「フサウミコップ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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