親善試合と、十二人目の笑う選手
「もう回ってるの、それ。赤い光がついてるから、回ってるのね」
柳井さんは湯呑みを両手で包んだまま、机の上の録音機を見た。夕方の公民館は、窓の外だけがまだ橙色に明るい。お茶は薄い若草色で、湯気がゆっくり天井へのぼっていく。わたしは「はい」とだけ答えた。
受理は九月二十八日の夜で、灯番号は T-20260928-02 になる。この一週間、市内の書き込みで「親善試合」という語が急に増えていた。河川敷の芝が夕日で赤銅色に見えるころ、統計の係から数字が届いた。先週の八倍を少し超えていた。
「うちの町と、川向こうの北岸町とでね、子どもの試合をしたの。しんせき試合。あら、しんぜん、だったかしら。でもみんな、しんせき試合って言うのよ。町内会長さんも言うし、連絡網にもそう書いてあったから。終わったらね、向こうの子もこっちの子も、身内になるの。だから負けても平気なの。うちの子になるんだから、ねえ」
「はい」
「入口に像があるでしょう。白い彫刻。男の子が二人、手をつないでるの。市の札には、しょうちょう、象徴主義っていう作り方だって書いてあってね。わたし、意味はよくわからないの。でも手をつないでるから、身内になるってことでしょう。そう思ってたの、ずっと。……ずっと」
「ええ」
「試合のあとに写真を撮ったの。そしたら十二人いるのよ。うちは十一人しかいないのに。端っこに灰色の服の子がいて、その子だけ、ずっと笑ってるの。喜び、っていうのかしら。それしか顔にないの。陽斗がね、孫がね、その子と握手したの。しんせきになろうね、って。わたしが、そう言いなさいって、言ったのよ。言ったの」
柳井さんはそこで湯呑みを置いた。お茶の表面に、蛍光灯の白い輪が小さくふるえていた。録音機の赤い光だけが、机の上で変わらずに灯っていた。
翌日の夕方、わたしは河川敷へ行った。二度目の親善試合の練習をしていた。フェンスには言祝会の紙が一枚貼ってあり、墨で「親善は顕現である」とだけ書いてあった。コーチの戸倉さんは、ホイッスルを首にかけたまま言った。「親善試合は、公式の記録に残らない練習の試合です。身内になるなんて話はありません」
戸倉さんは正しい。でも、その正しさは何の役にも立たなかった。彼は選手を指で数え、十一人と書いて用紙に署名した。グラウンドには十二人いた。灰色の選手は、戸倉さんの目の前を三度も横切った。それでも彼の視線は、一度もそこで止まらなかった。
近くで見ると、灰色の選手は汗をかいていなかった。濡れた芝のにおいに混じって、日なたの石のような熱が漂ってくる。体温より少し高い熱だ。口もとは笑っている。目も笑っている。怒りも疲れも、その顔のどこにもなかった。
その選手が、わたしに手を差し出した。わたしは握らなかった。手を引っこめて、見下ろした。そのとき、持っていた記録用紙に目が行った。北岸町の名簿のいちばん下に、鉛筆のうすい字で「ななお」と書き足されていた。わたしが書いた字ではない。消しゴムでこすると字は消えた。でも、紙のへこみは残った。
わたしは一つだけ尋ねた。「あなたは、どう呼ばれたいの」灰色の選手は答えなかった。笑ったまま、入口の像のほうを指さした。答えはなかったので、書き残すことも何もない。ほかの大人たちは、途中で目をそらした。わたしだけが——その背中が夕闇のゴールの向こうへ消えるまで、見ていた。
陽斗くんのことを書く。その夜、柳井さんの家の食卓に、陽斗くんは客として座っていた。母親は来客用の青い湯呑みに麦茶を注ぎ、「北岸さんとこの子」と呼んだ。陽斗くんは祖母を「おばあさん」と呼び、ていねいに頭を下げた。玄関の靴は、帰る人のように外を向いてそろえてあった。
集合写真の陽斗くんは、灰色の服を着て、北岸町の列に立っていた。顔はたしかに陽斗くんだった。でも、その顔には喜びしかなかった。夜になると、彼は川を渡って北岸町の家へ帰る。その家の人たちは、彼を親戚の甥として迎える。ちがうと言えるのは、柳井さん一人だけだった。その声は、もう誰にも届いていない。
わたしは柳井さんを慰めなかった。言い間違いのせいだとも、言わなかった。そう言えば、彼女の言葉がもう一度、像の輪郭を濃くするだけだからだ。
一週間がたつと、「親善試合」という語は書き込みからほとんど消えた。灰色の選手も、写真の中で少しずつ薄れていった。今では、ガラスについた指のあとのような影にしか見えない。——それでも陽斗くんは戻らなかった。今夜も彼は、川向こうの窓の灯りの下で、よその家の子として夕飯を食べている。
河川敷の入口の彫刻は、今も白い。二人の男の子が手をつないでいる。——その足もとに、三人目の小さな子が立っている。灰色の石で、顔は笑っている。いつ誰が作ったのか、市の記録には何も残っていない。札には今も、象徴主義とだけ書いてある。
末広商店街の閉じた八百屋の軒先に、誰かが小さな風鈴を一つ吊るしていた。その風鈴の音色には、まだ名前がない。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「トランスアバンギャルド」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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