甘いと呼ばれた水

甘いと呼ばれた水

語現体鴇江川

「甘い」と、前に立っていた男が言った。紙コップを口から離しもせずに言ったので、声はコップの中でいちど回ってから出てきた。私は列の三番目にいた。八月三日の朝で、鴇江川の護岸の上に長机が一つ出ており、その端に汲みたての水を入れた寸胴が置かれていた。

机には紙が貼ってあった。八月三日、はちみつの日。ハチとミツ。数字を読み替えただけの、誰が決めたのかも分からない記念日である。水と蜂蜜に何の関係があるのかを、私はそのとき考えなかった。前の男が甘いと言い、その前の女も甘いと言っていたからだ。

私の番が来た。紙コップを受け取り、口をつけた。水の味がした。井戸の、少し鉄の混じった、いつもの水の味である。

「甘いでしょう」と、配っている老人が言った。訊いているのではなく、確かめてもいない言い方だった。

「甘いです」と私は答えた。答えてから、自分がなぜそう答えたのかを考えた。考えているあいだにも、後ろの列から甘い、甘い、という声が上がりつづけていた。同じ抑揚で、同じ間隔で。護岸のコンクリートに反射して、声は水面のほうへ落ちていった。

昼を過ぎたころ、寸胴の中の水が濁りはじめたと聞いた。濁ったのではない、と老人は言い張ったそうだ。色がついたのだと。琥珀色である。

私が見に行ったときには、寸胴はもう空だった。空の底に、垂れている、としか言いようのないものが立っていた。丈は一升瓶ほどで、水の柱の形をしていて、輪郭がたえず下へ垂れているのに、いつまでたっても減らない。近寄ると歯の裏に薄い膜が張った。舐めても取れない膜だった。

誰かが写真を撮った。写真には何も写らなかった。写らなかったので、その場にいた者はみな、自分が見たものを言葉で説明することになった。説明する言葉は一つしかなかった。甘い、である。

夕方、私は家で味噌汁を飲んだ。飲んで、椀を置いた。何かが足りない。塩気はある。だしもある。足りないのは味ではなく、この味を私が何と呼んでいたか、という部分だった。舌の上に確かにあるのに、その先の道が切れている。

妻に訊いた。この汁、いつもと違うかと。違わない、と妻は言った。私は違うと言えなかった。何がどう違うのかを言うための言葉が、ちょうどその一つだけ、抜けていた。

翌朝、護岸に人はいなかった。長机も寸胴もなかった。八月三日は昨日で終わり、はちみつの日という言葉を誰も口にしなくなっていた。琥珀の柱は、川の淀みのあたりに細い筋になって沈んでいた。沈むところを見た者はいない。沈んだあとの筋だけが、水の下にしばらく残っていた。

それから私は、味噌汁を飲むたびに椀を置く。置いてしばらく考えて、それから飲む。妻はもう何も訊かない。

先日、列の三番目より後ろにいた人たちのことを考えた。あの日、甘いと言った者が何人いたのか、私は数えていない。数えていないので、誰の舌から何が引かれたのかも分からない。分からないまま、町の人はふつうに食事をしている。

引かれたものが何であるかを言えないというのは、引かれていないのと区別がつかないということである。区別がつかないなら、それは起きなかったことになる。町ではそういうことになっている。

ただ、鴇江川の淀みには、いまも夏の朝だけ細い筋が出る。琥珀色の、垂れているように見える筋である。私はそれを見るたびに、甘い、と思う。思うだけで、口には出さない。出したら、また一つ引かれる気がするからだ。何が引かれるのかは、引かれてみるまで分からない。分かったころには、分かったということも言えなくなっている。

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